ひなた

 家庭教師のバイト先で、こんな出会いがあるとは思いもしなかった。
「こ、こんばんは」
 小さいけれどよくひびく、透き通った愛らしい声。
 それだけでも胸にくるものがあったのに、目が合ってテンションが急上昇したのを自覚する。
 さらさらツヤツヤの黒髪セミロング。不安気にゆれる大きな瞳。影ができるほど長いまつ毛。形のいい鼻。シミもニキビもなに一つない、人形のように綺麗な白い肌。ピンクの唇は小ぶりでいかにもやわらかそうだ。華奢な身体はまだ未発達だがしなやかなラインを描いていて、ふくらみかけの胸とひざ丈スカートからのぞく足が妙になまめかしい。ちらりと見えた小さな手と、その指先まで愛らしいのに感動さえ覚えた。
 なにこのかわいい生き物。
 いかにも大人しそうな顔つきの少女は中学2年生で、保月ひなた(ほづきひなた)という名前らしい。
「こんばんは。カテキョの高橋です。よろしくー。敬語だと緊張するだろーし、タメ口でいいよ」
 上機嫌でニコニコと微笑みかけると、ひなたは白いほおを赤く染め、ぎこちなく親の影にかくれてしまった。
「すみません、この子すっごい人見知りで。だれにでもこうなんです」
 むしろ好みです。おびえる小動物みたいで守ってあげたいというか、自分だけに懐かせたい衝動に駆られます。
 なんて本音はおくびにも出さず、
「慣れてるんで大丈夫ですよー。人見知りな子ってけっこう多いんです。なんなら、緊張とけるまでお母さんも同席しますか?」
 問うと意外にも本人が答えた。
「一人で、平気」
 そうはいうが、まだ親の影から出てこない。
 彼女の母親と顔を見合わせて苦笑しつつ、役得だなーと内心ウキウキしていた。今まで出会った中で一番好みのタイプかもしれない。
 でもまあ、さすがに若すぎるし教え子だし。手を出すつもりはさらさらなかった。

◆

 この子、昔もう一匹ネコを飼ってたみたいだ。
 後日、ひなたの部屋で。
 黙々とテキストを解く彼女を見守っていたら、その膝の上に実体のないネコがのっているのに気がついた。
 少し毛並みの悪い三毛で、大きなお腹をあおむけにしてカギしっぽをゆらしている。
 この場にいるように見えるが、霊界と現世の次元が重なってそう見えるだけで、魂はすでに成仏して霊界にいるので問題なさそうだ。
 幸か不幸か俺は生まれつき霊感が強いらしく、しょっちゅうこういうものを見る。
 彼女はまったく気づいておらず、数学の公式に頭を悩ませていた。
「ひなたちゃんって三毛ネコ飼ってた?」
 問うと、彼女はきょとんと目を見開く。
 ペットと飼い主は似るというが、彼女は仕草や雰囲気がネコのようだ。例えるならミステリアスな黒ネコ。だがまだ幼くて、よちよち歩きで愛らしい感じ。もちろん野良じゃなくて完璧室内飼いの箱入りで、毛並みも育ちもいいけど、そのせいで人慣れしてなくて。でも人嫌いでもなくて、おっとりしてる。
 赤いリボンを首輪にしたら似合いそうだな、なんて考えて自重した。
 仕事中、仕事中。
「飼ってないけど、昔近所に住みついてた。よくエサあげたり抱っこしたりしてたんだけど……ある日とつぜん、車に轢かれて死んじゃってて」
 うつむくと、前髪で顔の半分がかくれてしまう。
 かわいい顔なのにもったいないと手がのびそうになって、代わりに赤ペンをくるくるともてあそんだ。
「うちで飼ってあげてれば死ななかったのかなって、たまに思う」
「ふーん。でもそのネコ、別にひなたちゃんのこと恨んでないけど。むしろ心配してるから、そろそろふっきった方がいい」
 いじめるなよ、とばかりにこちらを睨んでくる三毛ネコを見ながら告げると、ひなたが顔を上げ、不思議そうにまばたきした。
「高橋さんって変なこという」
「そうか?」
「いいかたが、変」
 ほんのり涙が溜まってうるんだ瞳が細められ、彼女がはにかむように笑う。
 その仕草があまりにかわいくて、心臓がひときわ大きくはねた。
 守ってあげたいような、もっと泣かせてみたいような。複雑な衝動に駆られて腰の辺りがぞくぞくする。
 ヤバイ、押し倒したい。
 抱きしめておさえつけて無理やり唇うばったりとか、はがいじめにして後ろからとか。優しく言葉責めしてはずかしがる顔を堪能しながら色々したい。
 暴走しそうになってひそかに拳をにぎりしめ、爪を手のひらに食いこませてその日はたえた。

◆

 落ちつけ、相手は14歳の中学生だ。
 気の迷い気の迷い、と元カノの写真やグラビア雑誌をながめてみたりしたものの。いつの間にか「対象が1人まで、つまり相手が何歳でも好きという場合はロリコンの定義に当てはまらない」とか、「13歳以上は合意の上ならOK」とかいう変なぬけ道を調べている自分がいた。我ながら気もち悪い。
 唯一の救いは、彼女の他に担当している女子生徒を見てもなにも感じないことだろうか。
 大学生の自分にとって中学生なんてただの子どもとしか思えないのに、ひなただけが例外なのだ。そこまで美少女ってわけではないのに。たぶん、あまりに好みすぎるからだろう。
 どーしたもんかなと大学の教室で考えふけっていたら、知り合いが声をかけてきた。
「ねー、あんた今フリーでしょ。友達があんたのこと気になってるみたいなんだけど、夜にご飯とかどう? あたしとあんたと、あたしの友だちと、あと石田くんで」
 同級生の上田。
 うっすら赤味がかったウエーブのロングヘア。さっぱりした性格で話しやすい女性だ。
「えー……どんな子?」
 気はのらないが、ひなたを諦めるには効果的かもしれない。
「あんたが好きそうな、大人しい子」
 その夜。
 ダブルデートもどきの飲み会でメンバーの顔ぶれを見るなり帰りたくなった。
 大人しいっつーか、憑いてるじゃねーか。あとたぶん病んでる。
 つややかなセミロングの黒髪をふわふわに巻いた、落ちついた色気のただようお洒落美人。肉づきが良くて出るとこ出てひっこむところはひっこんでるし、これだけなら魅力的な女性であることは認めよう。
 ただ、オーラが汚くて恋愛どうこう以前に人として近よりたくないのだ。
 霊とちがってこちらの方はうっすら見える程度なのだが、それでも色や印象でその人物の性格や肉体的、精神的健康状態がだいたいわかる。
 菱上(ひしがみ)と名のった彼女はまっ黒なドブ川のようなオーラを放っていて、見ているだけで頭痛がした。おまけに不健康だと霊にも憑かれやすいという悪循環が作用してか、低級霊に山ほど憑かれているらしく、気味の悪い人の顔のアザが体中に浮かんでいる。それらはなにかを小声でつぶやいていたり、原型がわからないくらい歪んだ表情をしていて、見ていると不安定な気もちになる。いくつか生霊も混じっているようだ。
 こいつぜったい性格悪い。あとなんかいろいろ病気もってる気がする。
 さりげなく視線を走らせると、薄手のカーディガンの下からリストカットの跡がのぞいていた。アイメイクが妙に濃いのはクマを隠すためだろう。噛んでいるのか、一本の爪だけネイルが剥がれてボロボロになっている。
 自分自身もけして良いとはいえない性格だし、不眠症なので他人を悪くはいえないのだが、そこは同族嫌悪だ。マイナスとマイナスがくっついたってプラスにならない場合もある。
「どうよ、好みのタイプ?」
 つき合いがあるのですぐ帰るわけにもいかず。適当に雑談しながら飲み食いしていたら石田と菱上がトイレに立ち、こっそり上田が聞いてきた。
「ぜんぜん」
 見たものと印象を正直に答えると、
「あんたの勘違いじゃないの? あの子とは会ったばっかだけど、別に性格悪くないよ。落ちついてしっかりしてて、普通って感じ」
「ネコ被ってるだけだ」
「だいたいさー、悪霊ついてるってんなら、あんたが祓って、精神的にも支えてあげればオーラも綺麗になるんじゃないの?」
 俺をマザーテレサかなにかと勘違いしてないか。悪霊つきなんてその辺にごろごろいるのだから、いちいち気にかけていられない。それに祓うだの精神的に支えるだのと簡単にいってくれるが、けっこうしんどいし金も時間もかかるし、場合によっては命に関わる。そこまでするほどのメリットは?
 いいかけて、やめる。
 彼女は飲んでいる最中に石田が菱上を気にかけていたのが面白くなく、俺とくっつけて安心したいだけなのだから。
「S系女は好みじゃない」
 大人しいと落ちつきがあるはちがう。あれはMでもあるが基本属性はSだ。
 上田がぶはっとふき出す。
「確かにねー! 高橋にはM系の彼女じゃないと合わない。ってかケンカになるわ! あたしだってたまにけっとばしたくなるもん」
 しばらく後になってわかったことだが、菱上は虚言癖で男遊びが激しかったそうだ。機嫌がいい時は人当たりがいいが、悪い時は所かまわず他人に罵詈雑言をまき散らし、人間関係のトラブルがたえない。同級生の私物や金品を盗んだりもするので問題になり、いつの間にか大学を中退していた。
 けれど、夜の歓楽街をさまよう姿がたまに目撃されているらしい。

◆

 あれから男友達と合コンに行ったり、別の友人に女の子を紹介してもらったりした。それで何人か性格の良いかわいい子と出会うことはできたのだが……なぜかどの子もぴんとこなかった。
「ひなが1番かわいい」
 週に2回ある家庭教師の時間。
 ひなたの部屋で机の前にならんですわり、隣の少女を見下ろしてついつぶやく。
 普通ていどに良い子なことはオーラを見ればわかるが、本当に他人の悪口をいわないし、あまりしゃべらないのに、そばにいるだけで和む子だ。知識欲が強いらしく、雑学や怪談を話すと目をキラキラさせて聞きたがるのも愛おしい。
「え? なにかいった?」
 やわらかそうな髪がさらりとゆれて、細い首すじがかすかにのぞく。
 シャーペンを動かす手を止めてあどけない顔がこちらを見上げた。こちらの顔の周辺をうろうろして、合わない視線がもどかしい。そっと顔をつかんで無理やり至近距離で見つめたら、どう反応するんだろうと妄想する。
「いつも俺ばっかりしゃべっちゃってるけど、話長くてごめんな。疲れない?」
 男友達からは「長すぎてたまにうっとうしい」といわれたりするのだが、癖というのはなかなか治らない。そもそも話すのが好きだし、その方が仕事上便利なのであまり治す気もないのだが、加減くらいは覚えた方がいいだろう。
 ひなたは「突然なにをいうのだろう」という顔でゆっくりまばたきをして、
「聞いてて面白いよ」
 と小さくほほえみ、視線をノートにもどす。
 ウソがつけなさそうな少女にいわれた一言に動悸を覚えた。赤くなっていそうな自分の顔を教科書でかくす。
 俺、もうロリコンでいい。