顔が見える

 それを初めて見たのは大学の講義中。
 ノートをとりながらウトウトしていたら、黒板の中央に男の顔が浮かんでいた。
 合成写真かなにかみたいに頭部だけしかない。
 黒髪のくせっ毛で、小太り。どこを見ているのかよくわからない、ぼうっとした目つきの丸顔の男だ。歳は三十路くらいだろうか。
 どこにでもいそうな顔だが、知り合いじゃない。
 だれだ、これは。
 いや、そもそもなんなんだ? これは。
 眠気は一気に覚めたが、わけがわからなくて目がはなせない。
 周囲はそれに気づいた様子もなく、普通に講義を続けている。
 俺以外には見えていない……?
 じわりと嫌な汗をかきながらそれを睨みつけていたら、やがて目が合った。
 生を感じられない、にごった瞳がこちらを見すえる。
 気づかれた。
「……ッ」
 反射的にのけぞってしまい、机においていたペンケースが音を立てて落ちる。
 近くにいた席の生徒たちの視線が集まり、我に返った。
「す、すみません」
 ペンケースをひろって黒板を見ると、もう顔は消えていた。
 単に寝ぼけたのだろう。
 そう思っていたのに。
 翌朝、自宅のアパート。
 いつもどおりの時間におきて。朝食はなんにしよう、なんて考えながら洗面台へむかう。
 顔を洗い、タオルに手をのばしながら目を開けると、鏡の中の自分の背後にあの”顔”が映っていた。
 反射的にふり返ったが、そこにはなにもいない。
 なのにずっとどこからか見られているような気がして、背筋がぞわぞわした。
 おそるおそる鏡へむき直っても、もう自分以外の姿はなく。流したままになっていた蛇口の水だけが音をたてている。
 ……怖がるあまり幻覚を見たんだ。
 落としたタオルを拾いながら、そのときはそう自分にいい聞かせた。
 けれど、その次の日もまた”顔”はあらわれる。
 うちの大学のトイレは少しうす暗い。
 蛍光灯が切れているわけでもないのに、いつも夜みたいな暗さだ。青い壁紙と蛍光灯の相性が悪いのかもしれない。ピカピカのタイルは鏡のように自分の顔を映しだすから、それが見える度にあの”顔”かと思ってビクビクしていた。
 壁は厚いのか、トイレの中はしんと静まり返っている。
 自分が手を洗う音だけがうるさく反響する中。
 視界のすみに映る壁の辺りが妙に気になって、目をむけた。
 光の加減で影がさし、少し暗くなっていたそこには”顔”がはりついていて、じいっとこちらをながめていた。
「うわああっ!?」
 ずっと俺を見ていたのか。
 どうしてついてくる。やはりあの教室で目をつけられてしまったのか。
 なにも悪いことはしていないのに。
 次々と疑問は浮かぶが、答えは出ない。
 その間もずっと顔は消えず、じっとこちらを見ている。
 タイルの反射と見間違えようがない、実物大のそれ。まるで人間の顔を刃物かなにかでそぎ落とし、壁に貼りつけたような異様な存在感。
 生きた人間の顔そっくりなのにまるで感情は読めず、意思の疎通ができない別の生き物みたいに思えた。
 身動きできず、だいたい10分くらい見つめ合っていただろうか。
 男子トイレの扉を開けて他の生徒が入ってきて、思わず泣きそうになる。
 おまえ、あれが見えるか。
 そう話しかけようとしたのに、目をはなした一瞬の隙に顔は消えていた。
 それからも”顔”は毎日あらわれる。
 大学で、自宅のアパートで、帰り道で。
 昼夜を問わずさまざまな場所であらわれて、ただこちらを見つめて消えるのだ。
 そんな生活がもう1ヶ月続いていた。
 特になにかされるわけではないが、気味が悪い。いつも見られているようで不安で眠れない。
「おまえ、変な薬でもやってんの?」
 友人に相談するとそんな風に茶化されてしまったが、彼は別の友人を紹介してくれた。
 霊感がある人で、たまにそれで小遣い稼ぎをしているという。
 俺は霊を信じていないけれど否定もしていない。
 今までの人生で見たことがなかったから特になんとも思っていなかった。それでも霊感商法はなんとなくうさんくさい。何百万もぼったくられたらどうしよう、なんて不安もある。
 けれどどうしても”顔”が怖いので、その人に会ってみることにした。
 まち合わせ場所の駅前でその人があらわれたとき、ほんの少し後悔したけれど。
 名前は斉藤。
 同い年なのに思わず”さん”をつけてしまうくらい、彼は見た目が怖かった。
 まず背が高い。ガタイがいい。顔立ちは整っているのに目つきがきつい。すっと細い切れ長の一重は常に睨んでいるようだ。
 話し方は気だるげなのに、立っているだけで威圧感がある。
 就職の関係で少し落ちついた茶髪になったものの、以前は金髪に近かったというから恐ろしい。霊なんて言葉とはまるで無縁の印象で、「金がない? 内臓売れ」とかいい出しそうだ。
 友人もいるけれど、なんとなく密室はさけたくて近くのカフェへ入る。
 あまりしゃべる人ではないらしく、彼はほとんど黙っている。しばらく俺と友人の声だけがひびいていたが、やがて。
「アレか?」
 斉藤さんがぽつりといって窓の一部を指さした。
「え?」
 そこにはいつのまにか、いつも出てくる顔が浮かんでいる。
「アレだ! なんなんだよアレ」
 俺は思わず身をのり出した。毎日あらわれるので、人通りの多い場所ならそれほど恐怖を感じなくなっていたが、不気味なことに変わりはない。
「え、どこどこ?」
 やはり友人には見えていないらしく、彼は窓の辺りで視線をウロウロさせている。
 斉藤さんはマイペースにコーヒーを飲みほして答えた。
「しらん」
「しらんって、おまえ……!」
 思わずさけびかけたが、睨まれて息が止まる。
「……み、見えてるんだろ? どうにかしてくれよ。あんたそういう人なんだろ?」
 訴えると斉藤さんがチラリと友人を見て、友人がごまかすように愛想笑いをした。
 財布を出しながら斉藤さんがいう。
「アレ自体は悪いものじゃない。警告みたいなもんだ」
 千円札をおき、席を立とうとする。
 友人があわてる。
「え、助けてくれないんすか斉藤さん」
「警告ってなんだよ、俺なにも悪いことしてないのに」
 とっさに彼の腕をつかもうとしたが、するっとよけられて転びそうになる。
「それ以外はわからんしできることもない」
 そういい残し、斉藤さんは帰ってしまった。
 友人は彼の後を追って出て行ったが、しばらくしてもどってくるとすまなそうに両手を合わせる。
「悪い、あの人口下手だから」
 なんてやつだ。期待させておいてなにも解決していない。
 金はとられなかったので文句はないが、斉藤さんにいわれた「警告」という言葉の意味がわからなくて、いつまでも耳に残っていた。
 顔が見えるようになって49日目。
 この頃にはもうこの幻覚は治らないのだと諦めていた。
 精神科へ行くのは抵抗があるし、どうせ”顔”はなにもしてこない。
 半ば開き直って繁華街をうろついていたときのこと。
 ふと気づくと、前方にあの”顔”が浮かんでいた。
 ああ、またか。
 少しヒヤリとはするものの、もう慣れてしまった。視線をそらそうとして、ギクリと身体が強ばる。あるはずのないものが見えた気がした。
 おそるおそる視線をもどす。
 人通りの多い昼さがりの十字路。
 交差点のむこうに浮かぶ”顔”には身体がついていた。
 顔と同じように小太りの、ずんぐりとした体型。
 49日も見続けてきたものを間違えるはずもない。アレは確かにあの顔だ。なのに、まるで普通の人間みたいに服を着て、ぼうっと辺りをながめている。
 どくん、と心臓が不穏に脈打つ。
 意思と関係なく手が震えていた。
 なんだ? なんだアレは? なぜ身体がある? どんな意味が?
 信号が青へ変わり、いっせいに人々が動き出す。
 俺は後ろから何度も人に押され、ぶつかられながらも硬直していた。
 そんな視線に気づいたのだろうか。
 ほおの肉にうもれた瞳がこちらを見て、笑った。
 見つかった。
 気づかれてしまった。
「うわあああああああああああああああああああ!」
 わけもわからずそう直感し、俺は悲鳴を上げながら逃げ出した。
 走って、走って、ひたすらにさけんで逃げ続ける。
 身体の生えた顔がすぐ後ろまで追いかけてきている気がして、いつまでも足が止まらない。
 その日は家に帰る気になれず、友人のところへ泊めてもらった。
 次の日。
 友人の部屋で朝食をとりながら、俺はようやくあの言葉の意味を理解した。
――警告。
 彼の部屋のテレビでは朝のニュースが始まっていて、女子アナが淡々と昨日おこった事件について報道している。
 俺がいた繁華街の十字路で通り魔殺人があったそうだ。
 犯人は無職の男で、三十代前半。
 通行人を無差別に包丁でめった刺しにし、逮捕されたという。
 死人は0人、7人が負傷。その内3人が重症で意識不明。
 犯人として報道された男の顔はあの”顔”とまったく同じものだった。
 悪寒とともに奇妙な確信をいだく。
 もしあのとき逃げなかったら、俺はこの男に殺されていたのかもしれない。
 あの”警告”は、「この顔を見たら逃げなさい」とだれかが教えてくれたように思えてならなかったから。