5話 課長のペット

 夏が終わりに近づいてきた、ある日。
 お昼休みが始まって早々に、めずらしい人が声をかけてきた。
「鈴木さん、良かったらお昼いっしょに食べに行かない?」
 やだ!
 っていいかけて、口をつぐむ。
 名前は早乙女(さおとめ)先輩。
 服装は地味で無難。
 小さな点々みたいな両目は素朴でかわいいとは思う。敵意でギラッギラに輝いていなければ。
 笑顔なのに目が殺気立ってて、この人怖い。大田原さんみたい。
 たぶん、40歳くらい。おそらくこの職場のお局さま的存在の人だと、女の勘が告げている。
 話したのは初めて。
 でも同じフロアにいるから、彼女の会話はたまに耳に入っていた。
 どうやらこの先輩、女に厳しい。そして男には甘く優しい猫なで声をだす。
 ついてってたら絶対なんかあるけど、断ったらたぶんもっと酷い目にあう。
 イヤだ~行きたくない! この人に関わりたくない!
 隣の席の教育係に視線で助けを求めると、
「行ってくれば? 俺はまだ仕事残ってるから」
 彼は不思議そうな顔で答えた。
 女の戦いに、男の助けを期待した私がバカだった。
「いいですよ。行きましょう」
 覚悟を決めてそう答えると、早乙女先輩が一瞬すごく怖い顔をした。
 よくわからないけど、さっそくなにか失言したらしい。

◆

 ついた先は、会社から徒歩5分のイタリアン。2階建てで、1階はオープンカフェになっている。
 ランチセットはそば粉のガレット。塩気の効いた玉子がおいしい。
 お洒落な店内で、私はひたすら「申し訳ございません」と相槌を打った。
 予想してたけど用件はお説教だったらしい。
 大田原さんで学習したので、彼女のいっていることがおかしくっても反論しない。ストレスでご飯食べられなくなったらどうしようと心配したけれど、大丈夫だった。怒らせなければそこまで怖くはない。
「私はあなたに従順で無力な新人ですけして逆らいません」
 そうアピールするたびに、早乙女先輩は上機嫌になっていった。意外とチョロいなこの人。
 彼女は「鈴木さんは社会人としてなっていない」といいたいそうだ。
 目上への態度がけしからん。もっとへりくだれ。敬え。男連中に色目を使うな。働くとはどういうことか。人生設計は立てているのか? 真面目に仕事する気あるのか?
 その他たくさん。
「ぜんぶ、あなたの為にいってあげているのよ? いくら美人でも、仕事ができなかったら”課長のペット”って呼ばれて終わりだから」
 早乙女先輩の瞳がニタリ、と歪んだ。
「その”課長のペット”ってなんなんですか? 前にもだれかがチラッといってたような……」
「大きな声ではいえないけどね。うちの課長、女の子はほとんど顔採用なの。一部の優秀な人をのぞいて」
 彼女がほんのり胸をはる。
 若くてかわいい女の子が多い職場だなとは思ってた。
「お気に入りの子は秘書にして連れ回したり、影でこっそり手出したりしてね。拒んだ子や飽きた子には手切れ金わたしてクビにしてポイ」
「そんなドラマみたいなこと、本当にあるんですか?」
 ちょっと話盛ってない?
「ただのウワサかもね? でも課長、男だけの飲み会のときにいつも自慢してるらしいから。日頃の行いも行いだしねえ」
「へー……」
 社会の闇は深いな。もしかして久瀬さんが「気をつけろ」っていってたのはこのこと?
 なんて考えていたら、先輩が続ける。
「そんなだから、ここに配属される新人の女の子ってキレイなだけのバカばっかりなのよ。いつも大した仕事もせずにチャラチャラしちゃって嫌らしい! 課長も課長で、そんな女を自慢気につれて歩くわけ。だから、みんな影で”ペット”って呼んでるの。不倫なんて不潔よねー、鈴木さん?」
 なるほど。
 私もそうなると疑われているのかな。見るからにスケベそうだもんなーあの人。
 外見を褒められて悪い気はしないけど。面接ダメダメだった私を採用した理由がそれだったら、嫌だ。
「はい。そもそも20も30も歳のちがう男性には興味ありません。万が一そういうお誘いを受けたら、会社辞めます」
 キッパリ答えると早乙女先輩は笑みを消し、「ほーん」とつぶやく。ほーんってなに。
「あたしからすると、おじさんの愛人になる女も、若い男に色目使うしか脳のない女もいっしょだけどね」
 ぞくぅっといいしれない悪寒が背中に走った。
 カエルを食べてしまうヘビのような目がじー……っとこちらを観察している。
 あっ、もしかして「若い男を狙ってます」って思われた!?
「そんなつもりはまったくありません! 仕事しにきてるんです!」
「……そう」
 お局さまはニコッと笑うと、お土産にクッキーを買ってくれた。
 ランチ代は普通にワリカンだった。

◆

 会社にもどると、久瀬さんはパソコンの前でカロリーメイトをかじっていた。
 不健康そうな食生活してるな、この人は。
「お帰り」
 こちらに気づくと、無表情でそんなことをいう。
 彫りの深い顔立ちは冷たく見えるけれど、だんだん印象が変わってきた。
 意外と温厚というか、実はけっこうぽやんとした性格だったりして……?
「ただいまもどりました」
「ランチ楽しかった?」
「久瀬さんが教育係で良かったってしみじみ思いました」
 大田原さんとかぜったい嫌だし。早乙女さんは疲れそう。小林さんと神野さんも優しいけど、このぽやん具合が一番落ちつくかも。
「え?」
「他の人が教育係だったら、たぶんもう辞めてます」
 久瀬さんは軽く机にほおづえをつき、不思議そうに笑う。
「俺も、鈴木みたいな新人が来てくれて嬉しいよ」
 色素の薄いブラウンの瞳は黒の虹彩だけが目だって、ハスキー犬みたいに見える。
 目つき悪くて最初は怖かったけど、いまはカッコイイと思う。
「ところで、イス遠くない?」
「そうですか?」
 早乙女さんに変な誤解をされたら困るので、ひそかに距離をとってみた。
 いくら格好良くても、こんな環境で職場恋愛する勇気はない。

◆

 配属されてから2ヶ月と少しの9月。
 関課長がめずらしく声をかけてきた。
「やあ。調子はどう? 仕事やっていけそう?」
 ほとんど社内にいないから存在忘れてた。
 いままで出張が多かったけど、ようやく落ちついてきたらしい。今日は少しだけラフな格好をしていた。
 彼の隣には美女がほほえんで立っている。
 いつも課長といっしょにいる秘書の人だ。あやしいウワサがチラリと脳裏をかすめたけど、とりあえずは笑顔で答える。
 根も葉もないウワサってこともあるし、あまりうのみにするのは良くないよね。
「はい。優しい先輩たちがいろいろ教えてくださるので、なんとかがんばってます」
「そう。がんばってね」
 課長が笑って右手をさし出した。
 握手なんてめずらしい。
 こちらも右手で軽く握り返した、直後。
 彼は両手でぎゅっと私の右手をつつみこんだ。
 えっなに。
 直後、いやらしい仕草でもみしだかれた。
 手の甲や手のひらをスリスリなでまわすように、胸でももむみたいな手つきだ。
 ひぎゃああああああああああああああ! 気持ち悪うううううっ!
 たかが握手でこんなに鳥肌が立ったのは初めてだ。
「いやー、やっぱり若い子はいいねー。肌がスベスベして気持ち良いねー」
 課長は笑いながらも私の手をはなさず、モミモミモミモミモミモミし続ける。
「……ッ」
 いったいなにがおきてるの?
 わけもわからず、されるがままになっていたら、
「課長、セクハラ」
 久瀬さんがエロ親父の手をはなしてくれた。
 近くにいた神野さんが苦笑する。
「女の子にむやみにさわっちゃダメですよー。今はすぐ訴えられちゃうんですから」
「ただの握手だよ、握手」
 課長はニコニコしながら、自分の机へもどっていった。
「……」
 あまりの気持ち悪さに呆然としていたら、久瀬さんが顔をのぞきこんでくる。
「大丈夫?」
「な……なんか……穢された気がします……」
 すぐに手を洗って消毒しなければ。
 泣きそうな気分で答えると、なぜかみんなが同時につぶやいた。
「若い……」
 なにその反応。
 久瀬さん、神野さん、小林さん、美人秘書。
 彼らはもっと過激な修羅場をくぐっているのかもしれない。