その35
夜。
奴隷は一生目にすることすらないような、上等の絹のベッド。
けれど部屋の主はそれを使わず、固い机につっぷして寝ていた。
机の上には次の戦場の地形や水場などが詳しく書かれた地図や戦術指南書。その国の歴史書などがいくつも広げたままになっている。
イヴァン王子はこの所遊び歩いているという噂が流れているが、実態はそうでもない。
王と兄達の補佐やさほど重要でない辺境の戦ばかりだが、彼はここ数年ずっと戦に出ずっぱりで、その合間に姉を蘇らせる方法を調べている。
つまり、ほとんど休んでいないのだ。
シマロの町へ行ったのも、「月に一度、住人すべてが美女になるという呪いがかけられている」という情報を手に入れたからだ。
強い呪いや魔術の情報があればその都度調査し、姉の蘇生法の参考にしている。
生乾きのペンの墨で頬を汚しながら、イヴァンは昔の夢を見ていた。
ペットの小鳥がかわいい仕草をしたとか、召使とこっそり市場へ遊びに行ったとか。どうでもいい雑談をしながらルシアがほほえむ。
彼女が好きな甘いお菓子や紅茶を飲みながら、そんな話に耳を傾けるのが好きだった。
自分の館で食事をしていても毒殺の心配をしなければならないのに、彼女とのお茶会のときはそれがない。彼女みずから毒見したものを用意してくれているからだ。
そのせいで毒にあたって寝こんだこともあるのだと、ルシアの乳母から耳打ちされたときは胸が熱くなったものだ。
けれど、楽しかった思い出はいきなり姉の死体へ切り替わる。
苦しそうに虚空を見つめたまま動かない瞳。
頬には涙が伝っている。
焼けつくような痛みが背中に走った。
「ルシアは隣国に嫁いで外交の架け橋になるはずだったんだぞ! せっかくこちらに有利な条件でまとまっていたのに……!」
父王の声。
重く、鋭く風を切る音がいくつもいくつも連続してひびく。
「おまえが死ねば良かったのだ!」
その度に視界は赤く染まっていった。
びくりとイヴァンが飛びおきる。
全身に冷や汗をかいている。引きつった顔で周囲を見渡し、散乱した机を見て息をはいた。
背中に手をのばし、唇を噛む。口からつうっと血が流れた。
「エムリスを呼べ」
少し大きな声で告げると、部屋の外で待機していた召使が返事をしてさって行く。
やがてやってくるエムリスに手当をさせる為、他の召使に自分の上着を脱がさせていると、何者かが窓をぶち破って飛びこんできた。
窓にはめられていた木板が割れて飛び散る。
召使たちが悲鳴をあげてうずくまる中、侵入者の青年はこちらを見るなり声を上げた。
「うげっ、人がいる!」
十代後半くらいで、黒髪に青い瞳。動きやすく涼しげな軽装で剣をたずさえている。
青年がおやと訝しげな顔をしたとたん、イヴァンは今の状態に気づいた。
手当する前だったから、上半身はなにも着ていない。
「……見たな」
イヴァンは幽鬼のような形相で青年をねめつけた。
ルシアを殺めたとき、父に鞭打たれた。
太くてごつい荒縄でできた鞭で、先端にとがった金具がついている。ご丁寧に硫黄と塩を混ぜて塗ってあり、一度打たれただけでも肉がえぐれ、激痛をともなう。
それでつけられた背中の傷は今でも癒えていなかった。
「殺せ!」
「はい」
イヴァンがさけぶと、呼応したかのように同じ窓から別の青年が飛びこんでくる。
国からついてきた従者の一人、オズ。
淡い紫の髪と瞳。いつもぼんやりした顔つきをしているが、腕はいいので重宝している。彼には敷地内の警護を命じていた。物音に反応してやってきたにしては速すぎるから、元々この侵入者を追っていたのかもしれない。
オズが接近すると、侵入者は素早くイヴァンの手首をつかみ、軽くひねって引きよせると剣を突きつけて盾にした。
「動くな!」
「はい」
オズがぴたりと止まる。
イヴァンは抵抗しようとしたが、身動きできない。
「貴様……帝国を敵に回す覚悟はあるんだろうな」
「てことは、やっぱあんたが噂の王子さまか。いい服着てんのに拷問されたみたいな傷跡があるから、ちがうのかと思ったけど」
青年はのん気に地雷を踏む。
「おいこいつ早く殺せ」
「はい」
イヴァンの命令にオズが答えるが、動こうとしない。
この侵入者は人を殺しなれているもの特有の匂いがする。イヴァンの喉をかっ切るのに躊躇などしないとわかっているのだ。
「ここにゲジ人の女の子と変なバケモノが来ただろ。どこにやった?」
「心配せずとも手厚く歓待しておるよ」
青年の眼前に巨大なヘビが出現した。
毒々しい真っ赤なウロコに金色の瞳。額と両頬に三角の模様が入っている。
「……ッ」
反射的に青年が後ずさる。
その一瞬の隙をついてヘビが全身に巻きつき、締めあげた。
青年が短くうめき、脱力する。
「やったか」
オズに保護されながらイヴァンが問う。
「気絶しただけです」
とヘビ。
「なぜ殺さない」
叱責すると、ヘビは赤いローブを着た老人に化けた。
どさりと青年が床に落ちる。
「ちょうど新しい実験台が欲しかったところ。どうせ殺すのだから、実験台にしてもいいでしょう」
イヴァンは小さく舌打ちした。
「……いいだろう。ただし俺の前には二度と連れてくるな」
◆
ヨウは冷たい石の床で目を覚ました。
辺りには大勢の生き物の気配と、獣脂が燃えるこげ臭い匂い。とりつけられた燭台が暗闇をまばらに照らしている。
「えーと」
重い頭をさすりながら、ここはどこだったかと考える。
馬車の御者からナギたちが連れて行かれた場所を聞き出し、夜の闇にまぎれて忍びこもうとした。が、王子の従者に見つかって追いかけっこしていたら事もあろうに王子の寝室に飛びこんでしまった。しかたないので王子を人質にとってナギたちを探そうとしたらヘビが出てきて。
そうだ、おそらく捕まったのだろう。
我ながらよく投獄されるものだ。
「だれかいる? いるよな、たぶん。気配するし。おーい」
ちびちゃんがいたりして。
そう期待して牢の奥へ進むと、そこには女性が横たわっていた。
寝ているのかと思ったが、目を開けたままなにかを小声でつぶやき続けている。
「熱いよ……熱いよ……熱いよ……熱いよ……」
ゲジ語だ。
「おい、あんた大丈夫か?」
黒髪に黒い瞳。東洋人特有の肌。やはりゲジ人だ。
「なんでこんな所に」
「故郷が滅びて行き倒れてたら、奴隷商人に拾われてここで買われちまったんだ」
男の声にふり返ると、そこには8人のゲジ人がたたずんでいた。
「呪力があるやつはそれなりにいい扱いを受けてるようだが、俺たちみたいに呪力がない奴はここで魔術の実験台にされてる。最初はあと3人いたんだが、そいつらはもう死んじまったよ」
ネコそっくりの耳としっぽの生えた中年親父。
頭部から首までが犬そのものになっている青年。
下半身がヘビの少女。
頭部にヤギの角が生えた妙齢の女性。
などなど個性的な姿ばかり。
「え? なにこれ本物?」
ヨウが中年男のネコ耳に手をのばすと、ぺしっとたたき落された。
「さわるな! けっこう敏感な部分なんだぞ」
◆
翌日。
「なんでもいい。おまえなりのやり方で蘇生法を探ってみろ」
エムリスにそういわれ、ナギは研究室をうろちょろしている。
そんなことをいわれても、呪いなんてしたことないのだ。蘇生法などサッパリである。
途方に暮れていたら、
「ならあいつらを手伝ってやれ」
と魔術師の集団に加えられた。
防腐処理をほどこしたルシアの遺体に魂がこもるよう祈るのだという。
よくわからないので、ナギはとりあえず心の中でルシアを呼んでみる。
きっとなにもおこらないだろうと思っていたが、
「私を呼ぶのはだれ?」
耳元でか細い女性の声がして、ひゃっと飛び上がった。
ふり返ってもそこにはだれもいない。
直後、魔術師たちがどよめいた。
台座の上に寝かされていたルシアの遺体がおき上がったのだ。
長い金髪がさらりとゆれ、長くてゆったりした衣服がすれて音を立てる。
えええええええ。
まさか本当に死人が生き返ったのか。
それならうちの家族も、などと期待に胸が高鳴る。
一同が息をのんで見守る中、彼女は台座から降りてそばにいた魔術師へ手をのばす。
かと思うと、その首筋にガブリと食らいついた。
「ぎゃああああああ!」
魔術師の身体がみるみる内に干からび、骨と皮と化す。
ルシアが手を放すと、人間の身体にしては妙に軽い音を立てて床へ落ちた。
彼女の身体は防腐処理されていて、本来の瞳の代わりに宝石で作られた義眼がはめられている。その緑の義眼が妖しく光った。
「イヴァン……」
赤く血で汚れた口元を軽くぬぐい、辺りを見まわす。
室内のいたるところから悲鳴が上がった。
魔術師や呪い師たちが逃げまどう。硬直して立ちすくんでいた女と目が合うと、ルシアは彼女にも噛みついて全身の血を吸った。
迷子の子どものような、頼りなげな顔をして死体を床へ捨てる。
「イヴァンはどこ?」
ナギは大口を開けてぽかんとしていた。
「な……なんですかあれ。ルシアさんて食人鬼かなにかだったんですか」
「そんなわけあるか馬鹿者が」
いつの間にか隣にエムリスがいた。
「確かに本人の身体、本人の魂なのになぜこうなるのか……多くの魔術や呪いをかけすぎてそれらが混じり、暴走したのか? しかし症状はキツネが蘇生したそれに似ている。キツネの呪いを元にしたのが間違いだったのか……むう、おまえいったいなにをした?」
「え。私のせいなんですか? ただ心の中でルシアさんを呼んだだけなんですが」
「今まで本人の魂を呼べたのはわしだけだった。他の奴らは犬やらネコやら、ちがう人間の魂ばかり呼んどった。いま、ルシア様を呼んだのはおまえだ」
「ええー、けっこう責任重大……ってのん気に考証してる場合ですか! どーしましょう、あれ」
こうしている間にも次々犠牲者は増えていく。
「とりあえず捕獲だ。怪我はさせるなよ」
エムリスが命じ、一同がしびれや眠りをおこす呪いをかける。ルシアは短く悲鳴を上げて動きを止めた。
縄を手にした兵士が背後から忍びよる。
直後、バリバリッとなにかが裂ける音がした。