その36


 ずるり、ずるりと、セミの脱皮のようにルシアの中身があらわれる。
 蝋や土などで加工された皮膚が縦に割れて崩れ落ち、骨が露出したのだ。緑の義眼がらんらんと光るガイコツである。
 髪はぼろぼろと崩れ落ち、泥の皮膚がわずかにこびりついている。綺麗に残っていた歯列は音を立ててのび、獣じみた牙と化した。全身の骨格がむき出しになり、服の大部分は破れ散った。残った衣服の切れはしにだけ淑女の面影があり、かえって痛々しい。
 ルシアは咆哮を上げると四つんばいで素早くはい回り、近くの呪い師に飛びかかった。
「ぎゃああああああああ!」
 もはや吸血ではなく、肉食獣そのものの動きで呪い師に食らいつく。その姿に、一同が凍りつく。
「うわああああ……な、なんか獣みたいになっちゃってますけど、アレ本当に本人の身体なんですか!?」
 ナギが青ざめてエムリスにたずねると、
「そのはずなんだがな」
 彼は両手で三角形を作り、そこをのぞくようにうながした。
「ほら、本人だ」
 三角形ごしにルシアを観察すると、動くガイコツの姿に半透明の少女が重なって見える。
 ガイコツが人工の皮膚を被っていたときに似た顔立ちだが、こちらの方が自然で美しい。わざとらしい輝きの義眼とは違う、淡い緑の瞳。金の髪。大人しく気弱そうな風情だが、ほんの少しイヴァンに似ていた。
 ふと、彼女と目が合う。
 まずい、と思ったときにはすでに遅く。彼女はこちらへ襲いかかってきた。
 隣にいたエムリスの姿がこつぜんと消える。
「た、助けてください!」
 とり残されたナギがあわてふためくと、どこからか彼の声だけが返ってきた。
「おまえにも力はあるのだ。自分でなんとかしろ」
 これくらいで死ぬような無能ならいらん、と非情な一言。
「人でなしー!」
 ルシアの鋭い爪が振り下ろされる直前、頭がまっ白になってナギはさけんだ。
「オオゲジサマ!」
 陶器のような、固いなにかが割れる音が鼓膜をつく。
 三角形の文様が描かれた札が破けて四散し、酒瓶の破片が目の前をかすめた。
「ひっく」
 そんな声がして、反射的に頭をかばっていた両手をどける。
 熱っぽい顔でとろーんとした少年が床に転がっていた。
 いつか夢で見た、まっすぐな黒髪に褐色の肌の少年だ。女の子みたいに華やかな顔だちで、上半身に黒い刺青がきざまれている。下は服で足首まで隠れているが、かすかに足輪がのぞいていた。
「お、オオゲジサマ?」
 酒臭い。明らかに酔いつぶれて寝ている。酒がのみたくて酒瓶に入ってしまい、出られなくなっていたのだろうか。でも確か主は呪いにかかって黒いヘビになっていたはずだし、別人かもしれない。
 戸惑っていたら、いきなり現れた酒瓶にひるんでいたルシアが少年の肩に噛みついた。
「あっ」
 危ない、とさけぶより先に。
「アアアアアアアアアアアッ」
 ルシアが悲鳴を上げてのたうちまわる。強い毒にあたったかのような苦しみようだ。
 彼女の牙は紫に変色し、どろどろと溶けていく。
 その間、少年はぐーすか眠りこけていた。肩に深い噛み跡がついたにも関わらず、眉一つ動かさない。
 その姿にナギは確信した。
 これ、オオゲジサマだ。
 意識がなくても、そばにいるだけで心強いのだから不思議だ。
 そんなとき、突然扉が開かれる。
「なにを騒いでいる」
 実験の様子を見に来たのだろう。イヴァンは入ってくるなり、硬直した。
 講堂と呼んでいいほど広い室内にはざっと十体ほど死体が転がっている。体中の水分がぬけ、骨と皮だけになっているものや、食い殺されて肉塊と化したもの。
 生き残っている魔術師や呪い師、学者たちの半数はすでに逃走した。それ以外の者は腰をぬかして震えるか、駆けつけた兵士たちと一緒にルシアを床に押さえつけ、魔術や呪いをかけていた。
 イヴァンの顔からさーっと血の気が引く。
「おまえたち姉上になんてことを! はなれろ!」
 あのガイコツを見てよく気づけたものだ。わずかに残った衣服や緑の義眼、周囲の状況から察したのだろうか。または、ナギにはわからない彼女の特徴を見つけたのかもしれない。
 彼は変わり果てて原型を留めていないルシアにまっすぐ駆けよった。
 その腕を翠が必死でつかむ。
「だめです! 近よらないでください」
「うるさい! 奴隷ごときが指図するな!」
 彼女を振り払って走るイヴァンの前に黒い影がよぎった。
 エムリスだ。
 どこかに隠れてずっと見ていたのだろう。
「行ってはいけません。あれはルシア様ではなく失敗作です。今までもたくさんいたでしょう。あれらと同じです」
 ついさっきナギに「本人だ」といった口で平然と「失敗作」だと告げる。
 とんでもない人だ。
「ちがう! あれは姉上だ。今までのものとはちがう! 彼女をはなせ!」
 王子はまるで止まろうとしない。
 エムリスが鋭く命じる。
「王子にバケモノを近づけるな!」
 兵士たちは動けなかった。
 イヴァンよりエムリスを支持する者が多いのかもしれない。いったいどちらの指示に従えばいいのか、とでもいいたげに顔を見合わせて彼らはざわめく。
 迷う彼らにイヴァンが一喝する。
「おまえたちはいったいだれの臣下だ!? 俺に従えない奴は今すぐ首を切り落としてやる!」
 兵士たちが一斉に武器を引いて後退した。魔術師たちも術をとき、そそくさと道を開ける。
 イヴァンは骨しかない姉に駆けより、抱きしめる。
「姉上!」
 ルシアは今までにない反応をした。
 抱きしめられたままイヴァンを見つめると、まるで彼が弟だと気づいたかのように笑ったのである。
「イヴァン……」
 そして彼を抱きしめ返し、首筋に喰らいついた。
 バッと赤い血が吹き出す。
「あね、うえ……!?」
 王子が痛みに顔をしかめる。首筋の血管がびくりと痙攣した。
「だからいったでしょう」
 他のどの兵士よりも速く、エムリスがルシアの頭蓋を短剣でかち割った。
 バキャキャッと大きく亀裂が入る。
 直後、ルシアの全身の骨がバラバラになって飛び散った。
「……ッ」
 呆けたイヴァンを止血しながら、エムリスが治癒をほどこす。
 他の者はしばらく混乱し、呆然としていたが、やがて悲鳴を上げ始める。
「うわああああ!」
「王子! お怪我は!?」
「魔術師どもなにをしている、エムリス殿に協力せんか!」
「騒ぐな。気が散る。うせろ」
 が、エムリスが鋭く睨みつけたとたん大人しくなり、退室していく。そのドサクサにまぎれて、ナギはひそかに館を脱走した。
 熟睡しているオオゲジサマを背中にかつぎ、こそこそと庭園を進む。
 理由はわからないが、同い年くらいの少年の姿で良かった。大人だったらとても運べないし、触ると毒にやられそうな生き物だったら近づくことすらできない。
 ふと、前方に翠を見つけた。
 泣きそうな顔でうつむき、一人木陰にたたずんでいる。
「翠さん」
 呼ぶと、彼女はさっと笑顔を作った。
「ナギさま。どうしたの、こんな所で。その人はお知り合い?」
「ええ、まあ……。なにやらキナ臭いので私たちはトンズラするつもりです。いっしょに来ませんか?」
 いまオオゲジサマのことを説明しているヒマはない。
 手短に誘うと翠は少し言葉につまったが、やがて首をふった。
「イヴァンさまのお側にいたいから」
「でも」
 あんな酷いことをいわれたのに。
 物いいたげな視線に気づいたのか、彼女は自嘲する。
「相手にされてないのはわかってるんだ。以前、お慕いしてますっていったら”俺がおまえに少し優しくしたのは、おまえが姉上と同じことをいったからだ。うぬぼれるな”っていわれたし……」
「そんな男のどこが好きなんですか?」
 そんなこといわれたら、百年の恋も冷めそうなものだが。
「それでも嬉しかったの。あんな風に優しくしてもらったの、ゲジがなくなってから初めてだったから」
 元気でね、と彼女は微笑んだ。
 翠と別れ、あと九人いるという他のゲジ人たちを探してウロウロしていたとき。
 視界の隅に赤いものがうつったかと思うと、ナギは背中のオオゲジサマごとグルグル巻きにされた。
「うわぁっ!?」
 大人を数人丸のみにできそうなくらい大きなヘビだ。
 全身まっかで、額と両頬に逆三角の模様がある。ヘビはナギたちに巻きついたままシュルシュルと舌を出した。
「どこへ行く?」
 聞き覚えのある老爺の声。
「エムリスさん? あなた魔物だったんですか」
「さてな。生まれたときは人だったはずだが……そんなことはいい。館へもどれ」
「ルシアさんの身体は壊れちゃいましたし、もう蘇生しようとしても無駄ですよ。本人の身体と魂でやってもあの出来だったんですから。私がいてもできることはないと思います」
「確かに、ルシア様の蘇生は絶望的だがな。使える手駒をみすみす手放すつもりはない」
「使えるって、ルシアさんを呼んだだけじゃないですか」
 赤ヘビは金の瞳を光らせて語る。
「そんなことすらできない者は大勢いるのだ。それに、おまえはさっきそいつを呼びよせてわしの封印を解くのと同時に、そいつにかかっていた呪いまで解いたではないか。さらにもう一つ、気づいていないのか? わしはさっきからマレウ語で話しているのだが」
「えっ? すごく流暢なゲジ語だと……」
 いいながら、ナギはぎくりとした。
 そういえばさっきイヴァンや兵士たちの言葉まで完璧に理解できていたような。簡単な日常会話くらいならともかく、早口は難しくてなかなか聞きとれないのに。
「いっただろう。それくらいの呪力があれば無意識に呪を使ってしまうものだと。やりすぎるとわしのようになるがな」
 そんな馬鹿な。
「そんな無意識で使えるものなら、おちおち悪口もいえないじゃないですか」
 ちょっとイラッとしたくらいで相手を呪ってしまったりしたら、恐ろしい。
「気にする所はそこなのか?」
 エムリスはしばし半眼になったが、気をとり直したように続けた。
「わしに従うなら制御の仕方を教えてや」
 巻きついていたウロコがびくりとゆれる。
「ナギに余計なことふきこむな」
 いつの間にかおきていたオオゲジサマがヘビに噛みついていた。
 そのまま両手でとぐろをこじ開ける。
「チッ、ずっと寝ていればいいものを」
 エムリスが素早くはなれると、同時にオオゲジサマがぐにゃりとゆらいだ。
 赤い大蛇にそっくりの形。
 けれど目はなく全身は黒い。まるでエムリスの影だ。
「ふざけたことを。わしの模倣で勝てると思うのか」
 挑発するためにわざとやってそうだなと思ったが、ナギは黙っていた。
 人外同士の争いを前にして子どもができることは一つ。
 怪我をしないように物陰に避難して見守るだけである。いつでも逃走可能である。
 黒ヘビが赤ヘビに食らいつく。赤ヘビはそれを軽くかわしたが、背後に出現したもう一匹の黒ヘビに胴体を噛みちぎられた。
 エムリスが目を見開く。
「分裂……だと……!?」
 いつの間にか周囲を八匹の黒ヘビに囲まれていたのだ。
 黒ヘビたちが一斉に赤ヘビを喰らいつくしていく。
 エムリスがひとかけら残らず食べつくされた瞬間、チッと摩擦の音がした。
 突風とともに熱気が走り、黒ヘビが爆発する。爆風がさり、火薬の匂いと煙が周囲に満ちたあと。
 煙の中から巨大ムカデが一匹現れた。
 目が合うと、サカサカよってくる。
「殺しちゃったんですか?」
 ナギが問うと、ぺっと地面になにかを吐き出した。
「逃げられた」
 赤くて丸く、透き通ったそれは大きくひび割れている。
 ヘビのウロコだ。
「オオゲジサマ、その足」
 ぞろぞろと百本近くある足の一つに、三角模様が刻まれていた。
「ナギこそ」
 示されて見てみれば、左手の甲に三角の印。
「いつのまに。なにかの呪いですか?」
「いや、これはただの所有印。”今は見逃すが、おまえたちは私のものだ”っていう感じの……」
 いいながらムカついてきたらしく、印をつけられた自らの足を噛みちぎって捨ててしまう。クワガタに似た鋭い牙と二本の触覚がこちらをむいて、ついヒヤッとした。
 私の手まで噛みちぎる気ですか。
 心配したが、軽くなめられただけでエムリスの印は消えた。