その40
「ユルドゥズ」
名前を読んでも反応はない。
一歩近よると、びくりと怯えるように後ずさって吠えた。
「ナギ。危ないよ」
オオゲジサマがくいと袖を引く。
「でも、攻撃してきませんよ」
「今はね」
そんなことをいうので振り返ってみると、背後にいた可憐な美少女は頭部を丸ごと剣山にして竜を威嚇していた。
「なにしてんですか」
彼女の肩をぽんとたたくと、しゅるりと牙が引っこんで元通りになる。少女はお人形みたいなかわいらしい顔でふくれっ面をした。
推定300歳がかわいこぶるなと内心つっこみつつ、ナギは思い切ってユルドゥズに近づく。
彼は目に見えて動揺する。
何度かこちらへ噛みつくふりをして威嚇し、うなり声を上げる。
普通なら、こんな状態のときに近づいてはいけない。おびえた獣が自己防衛の為に噛みついてくるからだ。オオゲジサマがそばにいるからこそできる暴挙だ。
もしここで本当に攻撃してくるようなら、ナギにできることはない。
けれど、どんなに近づいても威嚇だけで攻撃してくることはなく、とうとう彼を追いつめてしまった。白竜の背には巨大な木々がしげっていて、これ以上後ろへは逃げられない。
そっと大きな前足にふれる。
ウロコにおおわれたそこは、どす黒い血が凝り固まってしまっている。全身そんな状態なので、綺麗なところを探す方が難しそうだった。
「なにをそんなにおびえてるんですか?」
彼はオオゲジサマではなく、ナギの方におびえていた。
おびえる、というより過剰反応といった方が正確だろうか。
嫌なら、飛んで逃げればいい。ケガは治りつつあるし、飛べないほどではないはずだ。なのに本気で逃げず、さりとて近づくこともせず、こちらをこわごわ見つめている。
本当は仲良くしたいのでは?
現に、前足をなでている内に彼はふっと力を抜いた。
攻撃されないとようやく理解したらしい。
「アシュ……」
なにかしゃべったが、よく聞こえない。
「なんですか?」
問うと、竜は目を閉じて大きな頭をすりよせてくる。
雨が降っているせいか、泣いているように見えた。
少し犬に似た長い鼻をなでていると、ユルドゥズが人型へ変わった。
純白の長い髪に血のりがこびりつき、まばらに赤黒くそまって固まっている。身に着けている白い服も同じように汚れていた。月のように儚げな美貌にもかきむしった傷跡がいくつもついていて、赤紫の瞳は焦点が合っていない。
死にかけの生き物の目だ。
ユルドゥズは脱力するようにナギを抱きしめた。
困惑したものの、拒む気になれなくて大人しくしていたら、オオゲジサマがイライラしたように吐き捨てる。
「どっちみちもう寿命みたいだし、殺しちゃっていいんじゃないの」
「まだ根にもってるんですか? 呪いはとけたし、やられた分はやり返したんだから、もういいじゃないですか」
ナギはそういって赤い竜を見上げる。
「すみません。オオゲジサマが攻撃した分はおあいこ、ということでチャラにしてもらえるとありがたいんですが……?」
彼は無反応だ。
耳が聞こえていないのかと心配になる。以前会った時はもう少し反応があったのに。
「だから、そいつはもう壊れてるんだってば」
再び主がいう。
どうしていいかわからず、ナギは青年の姿をした竜をやんわりなでた。
「オオゲジサマ、なんか冷たいですね?」
「そろそろ離れないとそいつを引き裂いて食べてやるから」
とりあえず、ユルドゥズを町へ連れて帰ることにした。
竜の一匹くらい住人たちは受け入れてくれるだろう。
安易にそう考えたが、これがけっこう苦労した。
手を引けば素直についてくるのだが、なぜか大人を見かけるたびにユルドゥズが竜になって相手を殺そうとするのだ。
それを止め、また人型にもどすのに一苦労。
また、ユルドゥズは返り血と自分の傷でまっかっか。彼に抱きつかれたナギも全身まっか。オオゲジサマも返り血で半分くらい赤い。
非常に目立つ三人組だったため、目撃者がすごい勢いで悲鳴を上げた。
悲鳴に刺激されてユルドゥズがまた暴れだし、このまま町に入るのはマズイとようやく気がつく。馬鹿者である。
「ど、どーすれば……へくしっ」
人外2匹は大丈夫かもしれないが、ナギはこのままでは風邪を引いてしまう。
自分だけ先に町へもどり、着替えて大きな布かなにかをもってきて、その布で彼らをかくす……駄目だ、どんなに懇願しておいても彼らを二人きりにした時点で殺し合いが再開される気がする。
オオゲジサマに布をとってきてもらう、またはだれか頼りになりそうな人を呼んできてもらう……これだ。
さっそく頼んでみたところ、
「ヤダ」
作り物みたいに愛くるしい十歳の少女に、今まで見たことない冷たい表情で一蹴された。
とてもご機嫌ななめのようだ。
従者が主に使いっ走りを頼んだのだから無理もないが、いつもなら二つ返事で引き受けてくれそうなのに。
困り果てていたら、
「怪我をしたのか?」
とレンヤの声。
町から保護者三人組がやってきた。
レンヤとヨウ、ミカだ。双子はさっき町の住人が上げた悲鳴を聞きつけ、周囲を散策していたらしい。ミカはナギがいないので探してくれたそうだ。
これぞ天の助けと歓声を上げそうになったが、それより先にユルドゥズの暴走を止めるはめになった。やはり大人は駄目なのか。
「なぜそいつがここにいる?」
「お菓子をもらってもついていくなとあれほどいっただろーが、ちびちゃん。つーか、その血、怪我じゃないだろうな? 大丈夫か?」
「ん? どういうこと? オオゲジサマがなにかやらかして返り血あびただけじゃないの?」
レンヤ、ヨウ、ミカに一斉に話しかけられて混乱しそうになる。
「え、ええと……」
それを見てナギがいじめられているとでも思ったのか、ユルドゥズがうなり、また竜化しかけた。
「大丈夫です、大丈夫ですから」
とっさにその肩をつかんでなだめていたら、ミカがいう。
「あら。だれかと思ったら、そっちの女の子はオオゲジサマ?」
怖い顔をしていた主が一瞬きょとんとして、うなずく。
「うん」
「よくわかりますね。今は普通の人の姿なのに」
ついいうと、彼女は軽く笑った。
「よく見るとね、どの姿のときも仕草や表情がいっしょなの。その内わかるようになるわ」
さすが先代さまだ。
◆
ずぶぬれでは風邪をひく、とミカが雨用の外套を貸してくれた。
元々ナギにわたす為にもってきていたもので、自分用のはあるから大丈夫だという。双子もずぶぬれのままだが、子ども優先だから気にするなといわれた。人外2匹は論外らしい。
事情をすべて彼らに話して助けをこうと、思いもよらぬ結論が出た。
全員、ユルドゥズを町に入れることに反対なのである。
殺した方がいいとレンヤはいった。
「危険すぎる。常にナギが見張っているわけにはいかないだろう。ほんの少し、目をはなした隙に子ども以外の全員が皆殺しにあうかもしれない。それにそいつは諸外国から憎まれている。かくまえばただではすまない」
ヨウも同意見である。
「こいつに親切にしてもらったって、たった1回、雨除けしてもらっただけだろ? それだけで何百人と殺しまくったやつの味方すんのはちょっとな~。悪だの正義だのはどーでもいいけど、苦労レベル的に。よく考えろ、そこまでしてやる義理はない」
そして、ミカまでも。
「あたしもやーよ、そんな危険生物」
まさかの一言だ。
「そんな、先代だけはわかってくれると思っていたのに。オオゲジサマだって似たようなもんじゃないですか!」
「僕は味方を殺さないよ?」
主は心外だとでもいいたげに眉をひそめる。
その「基本的にはね」とかいう意味が含まれてそうな語尾がいまいち信用ならないのだが。
「危険生物は一匹で十分。それに、労力の割に見返りがないでしょ? オオゲジサマは恩恵ももたらしてくれるけど、死神保護したって悪いことしかないじゃない」
ミカに諭すようにいわれて、なんだかナギはしょげてきた。
なんなのだ、この「すて猫をひろってきたら元あった場所にすててきなさいと叱られた」みたいな状況は。
別に、雨よけしてもらったことにそこまで恩義を感じているわけじゃない。
でも、助けられるものを見殺しにするなんて後味が悪い。
とても純粋そうな生き物だし、ちょっとオオゲジサマに似てるし。各国を荒らしまくっていたのもなにか事情があったんだろう。
この会話を聞かせているのがだんだん可哀想になってきた。
「町の子どもたちにも何人か協力してもらって、暴走しないように見張りますから」
提案したが、みんな首を振る。
だれがいおうか、といった風に彼らは顔を見合わせ、ヨウが口を開く。
「ちびちゃんはオオゲジサマになれてるから、竜なんてでっかくて怖い生き物が暴れても動じない。血も平気だ。でも普通、血なんて汚いし臭いし怖いんだよ。そんな血のりべったりの怪物なんて、だれも近よりたがらない。親だって心配する」
「……」
盲点だった。
いつのまにか、自分の感覚はずいぶん他人とズレてしまったらしい。そういえば最近あんまりオオゲジサマをキモいと思わなくなってきたし。
「せめて大人しかったらな」
ヨウがため息をつく。
「もう諦めなよ。できるだけ苦しまないようにするからさ」
なだめるように主がいった。
それでいいと、三人の目が告げている。
「……じゃあ、私が出ていきます」
気がつけば、口から言葉がもれていた。
「こんな状態でほうっておけません。せめて彼の最期を看とるまではいっしょにいます」
竜の生命力がわからないから、どのくらいの期間になるか予想もできない。でも、ユルドゥズの様子を見るとそんなに長くはかからない気がした。