その41


「僕を置いて?」
 いつのまにかオオゲジサマが至近距離にいた。
 今は同じくらいの背丈の少女の姿をしているので、いつもより視線が近い。ネコを連想させる大きな黒い瞳からは感情が読めず、どことなく得たいの知れない禍々しさがにじみ出ている。
 怒っているのか悲しんでいるのか、あるいは少し気になった程度なのか。花のように可愛らしい顔にはいっさい表情が浮かんでいないため、それすらもわからない。
 彼女はまばたきもせずこちらを見つめている。
 ほんのわずかな呼吸から心音まで、余すところなく観察されているようで、つい息をのんだ。
 でもオオゲジサマは元気だし強いし、味方もいる。巫女一人いなくたって、どうってことないだろう。
「すみません。必ずもどってきますから」
 近すぎて頭を下げることもできず、そう告げるとオオゲジサマは深く傷ついたような顔をした。
 見間違いかと思うくらい短い一瞬のことだったのに、ものすごい罪悪感に駆られてナギは反射的に彼女の腕をつかむ。
「ご、ごめんなさい。やっぱりオオゲジサマも一緒に行きましょう」
 そうしないとどこかへ去ってしまって、二度と会えなくなる気がした。
「……」
 主は無表情のままこちらを見つめ返し、うなずく。
 ナギがほっと息をつく。
 あとでたくさん謝っておこう。ユルドゥズが嫌いみたいだし誘うと迷惑をかけるとか、元々自分のわがままなのだから一人で責任もってユルドゥズの面倒をみるべきだろうとか悩んだ結果だったのだが、こんなことなら最初から誘えば良かったかもしれない。
「俺たちもいく」
 不意にヨウが口をはさんだ。
 なぜかレンヤも当然という顔をしている。
「え? でも、反対なんでしょう?」
 ナギが問うと、ヨウは複雑そうに語った。
「死神を町に入れるのは反対だけどな。ちびちゃん達がそいつと出て行くっていうならついてくよ。俺たちはちびちゃん……と一応オオゲジサマについてきたわけだし」
「一応、ですか」
「俺らはちびちゃんが気に入ってんの。オオゲジサマとシュカが助けてくれた時だって、どーせ今みたいにちびちゃんが頼んでくれたんだろ」
「……でも、町はほうっておいて大丈夫なんですか?」
「男手も増えたし、大丈夫だろう」
 レンヤがいう。
 元旅人や双子たちの傭兵仲間も何人か居ついているそうだ。
「あたしは行かないわよ。この歳でまた流浪の旅とかぜったいイヤ」
 おもむろにミカが告げる。
 四十代は腰痛とかいろいろ大変らしい。
「それに、この顔ぶれ以外だと読み書き計算できるのパスカルだけだし。彼に商談なんかやらせたら赤字確実だからあたしが見張らなきゃ」
 パスカルというのは最近やってきた魔術師の名だ。
 計算が苦手なわけではないのだが、人が良すぎてとんでもない安値で薬を売っている。ちなみに病人はタダである。彼が生活できているのはたまに患者からもらう心ばかりのお礼の品と、ミカや町の住人の収入のおかげだろう。そんな生活が許されているのは彼の名医っぷりが町の発展に貢献しているからだが、彼の人徳による所も大きいとミカはいう。
「他の人は読み書き計算できないんですか?」
 町の住人は大人ばかりだったはずだが。
 ついたずねるとミカが目を輝かせ、双子たちは忘れ物に気づいたような顔をした。
「そうそう、そうなのよ! あたしもゲジを出るまで知らなかったんだけど、物を売買するための簡単な足し算引き算ができるくらいで、それ以上の複雑なものや読み書きはできないのが普通らしいわよ。びっくりよねー。あたしら外国語さえできれば職に困らないわよ」
 ヨウが軽く頭をかく。
「この二人が世間知らずな巫女さんだってこと忘れてた……」
 実際は化け物の世話係兼呪力の供給源なのだが、神職ということで、それなりの教育をほどこしてもらっていたようだ。自覚はないが。
 双子の生まれは孤児だが、貴族の養子だったのでいわずもがな。
 オオゲジサマは300年の歳月で学んだのか、食べた人間の知識を吸収したのかは謎だ。
「そういうわけで、あたしは町でキノコとか売ってるから」
 さり気なく一行から遠くはなれた場所でミカが宣言した。
 ちなみにユルドゥズはナギの後ろで大人たちとオオゲジサマを警戒している。
 双子たちもずっと剣をぬいたまましまわない。構えてはおらず下げている状態ではあるが、間違いなく背後の彼を刺激しているので勘弁して欲しい。しまってくれとさっきから目線でチラチラうながしてはいるのだが、これに関しては「駄目!」という顔だ。
 ユルドゥズを信用できないのか、あるいはこれくらいで襲いかかってくるのなら、やはり殺してしまおうという考えなのか。
 ともかく、話はまとまった。
「先代が残るなら安心です。町をよろしくお願いします」
 このまま町を出て行こうとしたら、ミカに止められた。
 一日くらいならユルドゥズが町の住人に危害を加えないように見張るから、身を清めて旅支度を整えてから行けというのだ。
 正直、風邪を引きそうだったのでとてもありがたい。
 反対に、彼らの手を借りないとユルドゥズの血のりを落としてやることすらできない自分が情けなくもあった。
 ナギがしたことといえば、彼を助けて欲しいと我がままをいっただけである。自分一人の力ではなにもしてやれていない。
「みんなを巻きこんでしまってすみません」
 情けなくて落ちこんでいたら、レンヤがきょとんとした。
「そのためについてきたんだ。どんどんこき使え」

◆

 名無しの町にもどり、それぞれ身を清めた。
 ユルドゥズはナギからはなれるのを嫌がったが、大人たちを家の外へ出してからうながすと、しぶしぶ風呂へ入っていった。
 ナギが大人たちといると酷く不安になるらしい。大人はすべて凶悪な殺人鬼だとでも思っているのかもしれない。
 逆にナギが風呂に入る時はどうしようかと思ったが、大人たちとオオゲジサマを一緒の部屋においてオオゲジサマがユルドゥズを殺そうとするのを予防し、ちがう部屋にユルドゥズを一人きりにして「ここでまっていて欲しい」といい聞かせてしのいだ。彼は大人を見たり、オオゲジサマが近づいたりしなければ穏やかである。
 オオゲジサマと双子は普通に風呂に入った。
 ミカは最初から外套を被っていたので、そもそも雨に濡れていなかった。
「綺麗になって良かったですね」
 さっぱりした後で、ナギが笑う。
 まだやつれているし表情は陰鬱だが、血のりを落としただけでユルドゥズはずいぶん見違えた。
 純白の長い髪にうすい赤紫の瞳。虹や海など、自然界の景色と比べても見劣りしない幻想的な容貌。着がえも白いものを用意しておいて良かった。
 まるで神さまみたいに綺麗だ。
 傷はほとんどふさがっている。オオゲジサマ並の治癒力だ。
 それなのに顔をかきむしった跡だけはまだうっすら残っているのが少し気になる。よほど深くかきむしったか、治る暇もないほど繰り返しかきむしったかのどちらかだろう。

◆

 寝る前に謝っておこうと、主を探してナギは夜の廊下を歩いていた。
 大人たちはユルドゥズが暴れたときにと警戒して近くの部屋にいる。同じ部屋にいるとナギが止めないと暴れだすため、別の部屋だ。
 いつもなら気がつくとそばにいるから、オオゲジサマを探しに行くのは奇妙な気分になる。
 あれからずっと一言も口をきいてくれなかったし、まさか出て行ってしまったのでは。
 不安に駆られてそわそわしていたら、不意に背中がヒヤリとする。
 ふり返ると、廊下を埋めつくすほどの大きなゴキブリがあんぐりと口を開けていた。
「良かった、ここにいたんですねオオゲジサマ」
 少し前なら悲鳴を上げて腰をぬかしていたところだが、悲しいかなもう慣れてしまった。今さらゴキブリくらいでは動じない。キモイのでこの姿のときはあまり触りたくないとは思うが。
「……」
 油虫は口を開けたまま動かない。
「今日はすみませんでした」
 ナギが頭を下げると、主は感情の読めない声でたずねた。
「食べていい?」
「え?」
「君を食べてもいい?」
 男に化けると男の声になり、女に化けると女の声になるのだが、魔物やよくわからない生き物に化けている時はいつもこの声だ。男女どちらともいえない、子どものような声。
 その気になればこちらの意思など無関係に食べられるのに、律儀に了解をとるのが不思議だ。今まで仕えてきた御巫一族への礼儀のつもりなのか。
 なんにせよ、不思議と怖いとは思わなかった。
「苦しまないように一思いにやってくれるなら、いいですよ」
 ナギはなにも抵抗しない。
「本当にいいの?」
 主はじわりと近づく。
「オオゲジサマに食べられるなら、いいです。ユルドゥズのことが心残りですが……」
「……」
 ゴキブリはしょぼんと触覚を下げた。
 許可してしまったしこれは間違いなく食べられるなと覚悟していたが、予想に反して主がいう。
「そんなこといわれたら、食べられない」
 いつも躊躇なく人間を食べているのに、今さらなにをいっているのだろう。
「私に怒ってるんでしょう? なら、どうぞ。元々あなたに捧げられた身です」
「……食べたくない」
 オオゲジサマはふいっと背中をむけ、
「御巫みたいに食べちゃえば、ずっと一緒にいられると思ったのに」
 そうつぶやいてどこかへ消えた。
 おそらく初代のことだろう。オオゲジサマは初代御巫以外はあまり御巫と呼びたがらないフシがある。
「オオゲジサマ……」
 ほんの少しの間、置いていくといっただけでそこまで気にするとは思わなかった。
 罪悪感に胸が痛んで、その夜はあまり寝つけなかった。