その65


 高い高い塔の上で、ナギは誘惑と戦っていた。
 空腹にたえかねて、お腹はきゅーきゅーと鳴いている。目の前のテーブルにはおいしそうなご馳走。
 けれど、手をつけようとはしない。
 毒入りかどうか、わからないのである。
 紅茶はわかりやすかったが、目の前のこれは薬くさくないし、それらしい沈殿物もない。大丈夫なのではと思いはするが、巧妙に仕こまれた毒はなかなか見破れないとレンヤはいっていた。食べない方が懸命だろう。
 ……もしかして、こうやってじわじわと飢え死にさせるのが狙いなのかもしれない。
 さっさと脱出して、ごはんをお腹いっぱい食べたい。
 そう思いはするものの。窓の外はぞっとするほど地面が遠いし、壁しかない。落ちたら即死だ。
 扉はグスタフしか開けられないし、詰んでいる。将棋なら王手まったなしだ。
 加えて清潔な室内やふかふかのベッドとさよならしたくないのもあって、ナギはごろごろしながら頭を悩ませている。
 そんなとき、不意に視線を感じた。
 いま、室内には他にだれもいないはず。警戒して周囲を見ると、窓の上にちょこんとコウモリがぶら下がっていた。
 目はないのだが、顔をこちらにむけて小さくなく。
「血」
 同じ外見の魔物はきっと何匹もいると思うが、
「前に会った子ですよね?」
 同じ種類の犬たちの中で自分の飼い犬一匹を見つける飼い主のごとく、ナギは直感した。
 けれど、窓辺へ近よるとコウモリは少しはなれて壁へ止まる。なんだか怖がっているようだ。
「どうしたんですか?」
「……」
 コウモリはじっとこちらを観察している。
 ナギなのかなと思ってはいても、確証がもてないのだろうか。
「私ですよ。このまえ助けてくれたでしょう?」
 手をさし出すと、おそるおそる飛んできて、手のひらに止まった。
 カプカプっと指先をかじられるが、痛くはない。お返しにとんと頭をつつくと、コロンとひっくり返って死んだふりをした。
 そういえばこのまえオオゲジサマに会ったから、その気配でもするのかもしれない。魔封じとやらもとれているし。
「そんなにおびえなくても、枕でたたき潰したりしませんよ」
 羽をなでながら告げると、コウモリはようやく警戒をといた。
 体勢を立てなおしてナギの周りをパタパタと飛び、室内の天井にぶら下がる。
「キィ」
 なにまた捕まってるんだよ、とでもいいたげな様子だ。
「ちょっと考えが足りなかったようです。反省してます」
「キ?」
「それはありがたいのですが、あなたの力を借りてもここから脱出するのは難しそうでして……」
 勝ち目のない状況でこの子を巻きこんでしまっては、かわいそうだ。
「どこかで私の仲間に会ったら、私がここにいると伝えてくれませんか? オオゲジサマ、レンヤ、ヨウっていうんです」
「キィ」
 彼らの特徴を教えて、少し血を上げたあと。
 コウモリはテーブルに並んだままの料理に顔をむけた。
「それは毒が入っているかもしれないから、ダメですよ」
 危ないといっているのに、「いいからいいから」と聞かない。魔物に人間の毒は効かないのだろうか。
 コウモリの指示通り全皿少しずつ小皿にとりわけると、ぺろりと平らげてしまった。
「大丈夫なんですか?」
「血」
 やっぱり血の方が美味い、といったところか。
 コウモリは口周りをぺろぺろしながら、ナギの指先に鼻をむける。さっき血をあげるために牙穴の開いた指だ。すでに包帯が巻いてある。
「もう血はあげませんよ」
 そういうとコウモリは翼をすくめ、料理にむかって鳴いた。
「おかわりですか?」
 ちがうらしい。
「私にも食べろってことですか?」
「キ」
「私は毒入りは食べられないんですが……」
 説明しようとすると、「知ってるよ」といわんばかりにフフンと胸を張る。
 そこでようやく小さな魔物の意図に気づく。
「まさか、毒味してくれたんですか!?」
 コウモリはにんまりと口元をつり上げた。
「ありがとうございます。あなたは頼りになりますね」
「血」
「それはダメです」
 ただでさえ栄養失調気味なのに、これ以上あげたらまた倒れてしまう。
 ありがたく食事に手をつけ、ほどなく完食する。ナギが満ち足りてころんとベッドに転がると、コウモリは闇夜ののぞく窓辺へ止まった。
「キ」
 気がむいたら、またきてやるよ。
 そんな風に聞こえた。

◆

 むかし、むかし。
 ジャクセン国にはそれはキレイな神獣がいました。
 白く清らかな大きな牙。美しい黄金色の毛並み。すべてを見通すような緑の瞳はおだやかで暖かい。
 軍馬くらい大きなそれは、ほんの少しヒョウに似ています。
 ちがうのは鳥のような翼があることと、牙の長さくらいでしょう。
 人語を理解するそれは気高く聡明で凛々しいと、歴代の王や民から絶大な人気を誇っていました。今でもジャクセンの国旗にはこの神獣が大きくえがかれています。
 けれど、神獣は天寿をまっとうし、天国へ帰って行ってしまいました。
 いまでは空の上からジャクセンを優しく見守ってくれているのです。
 ……表むきはそういうことになっていました。
 実は神獣はまだ生きています。
 いまの王さまであるヨーゼフが7歳の誕生日を迎えたとき。
「今日からおまえがお世話をするんだよ」
 そんな父の言葉とともに、ヨーゼフと神獣は出会いました。
 神獣の世話は巫女や神官がするのが一般的なのですが、この国では歴代の王が直々に世話をすることになっていました。それほど王と神獣は結びつきが強かったのです。
 神獣の世話役を任されたということは、次代の王を約束されたということ。
 ヨーゼフはとても舞い上がり、はりきりました。
 神獣にフィロスと名前をつけ、朝から晩までずっとそばにいます。勉強をしているときも、食事のときも鍛錬のときもいっしょでした。
 けれど三年くらいたったある日。
 同盟国とのパーティの最中、とある王女が声をひそめていいました。
「なんだか獣くさいわ。食事の席にまで連れてくるなんて、なにを考えているの」
 面とむかっていわれたわけではないけれど、それはヨーゼフにとって衝撃的でした。
 フィロスはジャクセン国ではとても敬愛されているので、どこへ連れて行っても大歓迎されていたのです。そんな風に考える人がいるなんて、思ってもいませんでした。
 鼻がなれてなにも感じなくなってしまっただけで、もしかしたら自分やフィロスはとても獣くさいのかもしれない。
 フィロスの毛並みはつややかに磨かれ、良い香りをしていたのですが、ヨーゼフは急に不安になりました。
「すまないフィロス。今日から、用があるとき以外はここにいてくれないか」
 城の地下に広くて大きなフィロスの部屋を作りました。
 ふかふかのソファや絨毯をしき、居心地が悪くないよう様々な工夫をします。
 ヨーゼフはたびたびここを訪れてフィロスの世話をしました。
 けれど、ヨーゼフは次の王位継承者。
 成長するにつれて多忙になっていきます。フィロスの部屋へ訪れる頻度も少しずつ減っていきます。
 それでも一日に一回は必ずたずねるようにしていたのですが、ある日。
 ヨーゼフは訓練でとても疲れていました。授業でもバカな回答をしてしまい、教師にこってりしぼられて、もうなにもしたくない心境です。
「一日くらい世話しなくたって死なないよな……何百年も生きた神獣だし。一年に一度食べるだけでも生きていけるって聞いたことあるし」
 そしてとうとう、彼は怠惰に負けてしまいました。
 一日サボった翌日は世話をしましたが、疲れている日はフィロスに会いに行かなくなりました。
 年に一度が半年に一度。三ヶ月に一度が月に一度。
 彼が多忙になるにつれてその頻度は増えていき、やがて父がたずねました。
「最近、神獣さまを見ないんだが。ちゃんとお世話をしているんだろうな?」
 ヨーゼフはひそかに青ざめました。
 フィロスを地下へ閉じこめたまま、もう一年と半年も会いに行っていなかったからです。そのころの彼はフィロスよりも、できたばかりの婚約者と仕事に夢中になっていました。
「もちろんです、父上」
 そう答えたあとで、あわててフィロスの様子を見に行きました。
 死んでいたらどうしよう。
 生きた心地がしませんでしたが、それよりも酷い光景が地下でまっていました。
 階段を降り、扉の前へ近づいただけでただよってくるキツイ悪臭。
 扉の下からは泥水のようなものが流れています。
「なんだ、これは……」
 おそるおそる中へ入って、ヨーゼフは短く悲鳴を上げます。
 壁紙が裂けているし、絨毯にはいくつもの黒いカビ。破けたクッションやソファからは茶色く汚れたワタがはみ出しています。その部屋の中央にはおぞましい怪物がいました。
 糞尿にまみれ、ところどころ固まった黒い毛と翼。そのいたるところにハエやしらみ、ダニがびっしり。
 黒いゴミにしか見えませんが、上の方にかすかに緑の瞳と長い二つの牙がのぞいていました。
「おまえ、ま、まさかふぃろ……」
 ヨーゼフが思わずつぶやくと、ゴミの固まりがのそりとこちらをむきます。
「うわあああああああああああああああああああああああ!!」
 反射的に彼は部屋を飛び出しました。
 しっかりと扉を閉め、自分の豪華で清潔な部屋へ逃げて一晩中おびえます。
 それから彼がしたことは、自分の罪の隠蔽でした。