その69


 あやつり人形の糸が切れたように、オオカミたちが元の土へもどっていく。
 シロに地上へ降ろしてもらい、ナギはレンヤと獣に近づいた。
「レンヤの勝ちです。休戦してくれますか?」
「……」
 獣は黙りこんだまま。じとりとこちらを見上げる。
 目が開いていないので多少のズレはあるが、だいたいの位置は合っていた。
 なんとなくユルドゥズを思い出すが、彼の沈黙は口下手ゆえであり、少し性質がちがう。この子の場合は「べ、別におまえに負けたわけじゃないんだからね! そこの剣士に負けたんだからね!」とすねている気がした。
「無視しないでください。あなた、人の言葉がわかっているんでしょう?」
 ナギは軽くしゃがみ、地にふせたままの獣に視線を合わせて続ける。
「脳みその小さいコウモリだって人の言葉がわかるんですから。こんなに強くて魔力が高くて、人よりも大きいあなたが理解してないはずないです」
 そこまでいって、ナギはふとつけたした。
「ちなみに今のはコウモリの悪口をいったわけではないです。コウモリ好きですよ!」
 どこかであの子に聞かれていたら怒られそうなので、念のため。
 そういえば昨夜も遊びにきて森へ帰っていったが元気だろうか。別れのあいさつをしそびれてしまった。
「なにが望みだ」
 つい、耳をうたがう。
 レンヤより低い男の声がして視線をむけると、獣が口を動かしていた。
「しゃべれたんですか!?」
 そこまではわからなかった。
 剣を油断なく獣につきつけたまま、レンヤもおどろいた顔をしている。しゃべりにくそうだから、もうちょっと剣をはなしてあげてもいいと思う。
「私たちはこの国から逃げ出せればそれでいいので、見逃してください」
「おまえたちはジャクセンの敵ではないのか?」
「ジャクセンってなんですか?」
「……この国の名前だ。そんなことも知らずになぜここにいる」
「仲間がある事情で悪いことをしたので、殺されてしまったんです。そのときに私も捕まって、ここに連れてこられたみたいです」
「罪人というわけか」
「そうですね。でも、危害を加えられない限りはなにもしません」
「ならばすぐジャクセンをされ。おまえたちがジャクセンの敵になるなら、この身が朽ちても滅ばさねばならん」
「……」
 ナギは目の前の獣をまじまじとながめる。
 全身にたかっていた黒い虫はほとんど落ちたが、その下は目を背けたくなるほどだ。レンヤに斬りつけられた傷は少しずつ治っていくのに、汚れはとれない。荒れはて、ごわごわに固まったまだらの毛皮。ところどころ骨が浮き出たガリガリの身体。すさまじい異臭を放っているが、もう鼻がマヒしてしまった。
「国の敵だと思ったから私を襲ったんですか?」
「おまえからは邪悪な気配がする」
 たぶんオオゲジサマの気配だろう。
 いちおう神獣なのだが、異教の神が邪悪あつかいされるのはたまにあることだ。
「ずっと気になっていたんです。見たところ、なにも世話されずに不衛生な場所に閉じこめられていたみたいですけど。どうして逃げなかったんですか? あなたくらい強ければ逃げられそうですし、そんなあつかいを受けているのに国を守ろうとするのが、不思議でならないんですが……」
 獣は答えない。
 ひどいあつかいを受けている自覚はあったのかもしれない。
 そのたえるような態度が我慢できず、ナギは続ける。
「あなただからまだ生きていられるものの、普通の動物や弱い魔物だったらとっくに死んでいます。あなたが誠心誠意つかえていても、国はまるであなたを大事にしてないじゃないですか。私があなただったらこんな国とっとと見捨てて逃げています。それどころか、滅びてしまえと呪ってますよ」
「だまれ!」
 獣がほえる。
 即座に剣がその首へめりこみ、ぶ厚い毛皮が数センチ切れた。
 レンヤの刃に血がしたたり、獣は我に返ったように動きを止める。こちらの殺気は少しおさまったものの、保護者の形相が恐ろしいことになっていた。いつものおだやかな無表情ではなく、「殺すぞテメエ」みたいな目をしている。
 間に割って入ってきたレンヤの背中をなだめるようにべしべしたたき、ナギは獣に頭を下げる。
「ごめんなさい。さし出がましいことをいってしまいました」
 気高い神獣の誇りを貶めてはいけないのだ。
 自然とそう考えてから、もしかしてこれはただの獣ではなく、神獣かもしれないと直感した。これは魔物じゃない。ただの獣でもない。オオゲジサマと同じ種類の生き物だ。
 グルグルとうなっていた獣はうなるのを止め、牙をむいていた口をもどす。
「……約束したからだ」
 守ってやる、と。
「たとえ必要とされなくとも、俺は国を守る」
 小さくつぶやかれた言葉は、泣いているんじゃないかと思うくらい悲しげだった。

◆

「……約束したからだ」
 空からひびいたフィロスの言葉を聞いたとたん、ヨーゼフは思わず岩をとり落とした。
 中庭に到着し、岩で水晶玉をガンガン殴り続けていたのである。
 水晶玉にはいくつも深い亀裂が入り、もうじき完全に砕ける。あと少しなのに、彼の身体はまったく動かなくなってしまった。
 脳裏によみがえるのは何十年もむかしのこと。
 フィロスの世話を任されたばかりのころ、ヨーゼフは勉強も鍛錬も外交もできず、貴族たちにバカにされて泣いていた。
「僕は王さまにむいてないんだ」
 絹のようにつややかな金色の毛並みを抱きしめてそう愚痴ると、フィロスはぺろぺろと顔をなめて慰めてくれる。
「僕みたいなのが王になったらあっという間に滅ぼされてしまうっていわれた。バカが王さまになったらこの国は終わりだとか、弟の方が優秀だとか」
 泣きごとをいい続けるヨーゼフを見かねたのか、寡黙なフィロスがめずらしく口を開く。
「俺がいるから大丈夫だ。魔物がきても、他国が攻めてきても返り討ちにしてやる」
「でも、僕のヘボ指揮じゃ戦になんか勝てないって……」
「努力しろ。せいいっぱいやって駄目だったら、俺がおまえと国を守ってやる」
 フィロスの優しい緑のまなざしを思い出し、ヨーゼフの両目から涙が落ちる。
 間違いなく恨まれていると思っていた。
 20年近くエサも水もやらず、暗い地下室へ閉じこめたまま会いにも来ない。
 かつて友とまで思っていた神獣を心配もせず、早く死ねばいいのにとばかり考えていた。汚れて醜くなった姿など見たくもないと。願うのは自分の心配ばかり。
 フィロスに殺されたってしかたないくらいだ。
 なのにどうして、何十年も昔の口約束を守ろうとするのか。
「……なぜだ、フィロス」
 ヨーゼフは慟哭し、地面を殴りつける。
 その衝撃で水晶玉は完全に割れ、空に映しだされた映像がぷつりと途絶えた。

◆

 ジャクセン城内。
 開かずの間と化した私室の中で、グスタフは苦痛にのたうち回っていた。
 彼の左の眼球がつぶれ、あふれるように血が流れている。
 水色に透き通った人魚がオロオロしながらその目に手を当てると、じょじょに血が止まり始めた。
「姫にふれるように丁重にあつかえといっておくべきだったな……」
 ふうと息をつく。
 彼の寝ていたベッドはすっかり赤く染まっていた。
 数時間後。
 眼帯をあて、身支度を終えたグスタフはヨーゼフの前に立っていた。
 ヨーゼフはうつろなまなざしをこちらへむける。
 玉座にいるものの、すっかり呆けたように脱力していた。周囲にいた臣下たちが一方的になにか話していたが、まるで聞こえていない様子である。
「グスタフ……おまえ、有休はどうした?」
「緊急事態のようでしたので?」
「そう……そうなんだ、フィロスが。あの死神の手下と」
「わかってますよ? ずっと夢の中で視てましたから」
「夢?」
 いぶかしげな顔をするヨーゼフをさえぎって、グスタフは問う。
「それで、私にどうして欲しいですか? 王よ」
 神獣とミカナギは和解してしまった。
 彼らを野放しにはしておけないだろう。
「フィロスの所へ連れて行ってくれ」
 ヨーゼフの瞳にほんの少し光がもどった。

◆

 空をながめていた各地の人々はざわめていた。
 映像が途絶えてからはよりいっそう混乱しはじめ、あちこちで話し声がひびく。
「死神の手下を公開処刑していたんじゃなかったのか? 休戦しちまったぞ」
「あのバケモノ、ジャクセンを守るっていってた。それになんだかフィロスさまに似てなかったか? 本当は生きてて、ずっと汚いところに閉じこめられたせいであんな姿になっちまったんじゃ……」
「バカいえ! あんなおぞましいバケモノとフィロスさまを一緒にするな! フィロスさまはもう死んじまったんだ」
「そうだ。だいたい、だれが神獣をそんな目に合わせるってんだよ。いい加減なこというな!」
「でもよ、あのバケモノいいやつだよな」
「……そうだな」
 中には、城や兵士たちにつめかける者たちもいる。
「おい、処刑に失敗してるじゃないか! 早く罪人を殺してくれなきゃ安心できないだろ。さっさと殺せよ」
「あのバケモノはいったいなんなんだ!?」
 けれどほとんどは、映像の消えた空を見上げたまま周囲の者たちとうわさ話をしていた。
「あれ、本当に死神の仲間だったの? なんだか思ってたのとちがう……」
「あの剣士、カッコよかった」
「女の子もお行儀よくてかわいかったわ。たまに怖いこというけど」
「でもよくあんなバケモノと普通に話せるわね。殺されかけた後なのよ?」
「あんな醜いバケモノに平気で近づけるなんて、人間にできるはずないわよ。頭がおかしいか、魔物が化けてるんじゃないの」
「……確かに、普通の人間なら魔物と話なんてできないわよね。変な力を使ってたし」
「優しそうに見えたけど、それも作戦なのかしら」
「そんなことないよ。私、あの子と何度か話したことあるけど、普通の子だったよ」
 井戸端会議と化している女性陣の中に、アンリが口をはさむ。
 話したことがある、という言葉に会話に加わっていなかった周囲の者まで彼女を注目する。警戒と好奇心の入り混じった視線に気圧されそうになりながら、アンリは続けた。
「あの子、オオゲジサマっていう神獣の巫女なんだって。呪力が高いからか、神獣とずっといっしょにいたせいかは知らないけど、人外と心が通じやすいみたい。死神といっしょにいたときも悪さしてたわけじゃないっていってたよ」
 一途で少し壊れていて、子どもにしか心を許さない白い竜。
 ナギに聞いたユルドゥズのことを語るアンリの言葉に、周囲はじっと耳を傾けた。
 同じころ、ナギに助けられた少女も衆目を前に語っていた。
「あの子は私を助けてくれたの。悪い子じゃないよ。死神といっしょにいたのだって、なにか事情があったんだと思う」
 父の背にかくれながら。
 町の人たちがアンリの周辺と似たようなことをいいだしたので、いてもたってもいられなかったのである。
 また一同に白い目で見られるのではないかと、父はひそかに気が気ではなかった。
 けれど、彼らも映像を見た後ではそれなりに思うところがあったのだろう。
 ヒソヒソと罵倒の声も聞こえてくるものの、面とむかってとやかくいう者はでてこない。顔を見合わせて首をかしげる者が多く、全体的には半信半疑といったところ。
 その日、世論はほんの少しだけ変化した。
 死神の仲間は一人残らず殺すべきだ、という熱狂的な勢いがやや緩和されたのである。