その72
燃えているのか、消えかけているのか。
陶器のすき間から細く白い煙を吐き出し続ける香を見て、ヨーゼフは頼りなげに眉尻を下げた。
ちょっとフタを開けてみようか。
好奇心にかられて陶器をつまんだとき、少しはなれた茂みがかすかにゆれた。
月明かりに照らされ、うすく輪郭だけがわかる藍染め色の世界。
そこへ見覚えのある緑の瞳が二つ現れて、反射的にさけぶ。
「フィロス……ッ」
声はほとんど悲鳴と化していた。
香をとり落としそうになり、とっさに強く握りしめる。
声を出したからだろう。辺りを探るように動いていた緑の瞳がこちらを捕らえる。
宝石のように透き通ったそれは昔と変わらず見惚れるほどで、魂をぬかれるような錯覚をいだく。
茂みから出て、月明かりに照らされた体は昼間みたものとは様子がちがっていた。
腐臭にまみれ、虫にたかられていたはずなのに。
長い二つの牙がない。痛んで血と汚物とホコリなどが散々からまっていた毛も、すべて刈られている。洗われてこざっぱりした様子だ。膿んでいた翼は骨だけが残っている。
「フィロス……なのか? き、キレイになったじゃないか」
なんだか良い匂いまでする。
剥製にして飾りたいくらいだった昔の姿には遠くおよばないが、あのおぞましい姿からよく持ち直したものだ。ガーゴイルみたいでまだ不気味だが、少しは見れる。
「……」
フィロスははなれて正面へとすわり、ただまっすぐにこちらをながめる。
綺麗で優しく暖かい緑の瞳。
小さなころは確かにそう思っていたはずなのに、いまは綺麗でも冷たいと感じる。
なにを考えているのかわからない、作り物みたいで気味が悪い。
ヨーゼフは軽く視線をそらす。
「おまえに謝りたくて、会いに来たんだ」
なにから話せばいいのかと迷いながら口を開く。
「昔の約束、覚えてくれてたんだろう? 聞いたよ、ジャクセンを守るっておまえの言葉。てっきり恨まれていると思っていたから、嬉しかった」
自然と笑みが浮かぶ。
「いままで放っておいて悪かった。また城へもどってきて、俺を支えてくれないか? もちろん、もう閉じこめたりはしないから」
「……」
フィロスはのそりと身をおこすと、長いカギ爪が目立つ四肢を動かし、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。
「そうか、許してくれるか……!」
その頭をなでようと、ヨーゼフが手をのばす。
やわらかく、フサフサしていたたてがみはもうない。坊主刈りのように短い毛だけが残るそれにふれる寸前。
フィロスは噛みつくようにほえた。
短く苛烈な拒絶が耳をつんざく。長い牙はなくなっても、残りの牙や爪だけで十分すぎる殺傷能力をもつ獣である。
「ヒッ!?」
いまにも食い殺されそうな迫力に気圧されて、ヨーゼフはたまらず腰をぬかした。
殺される!
とっさに両手で頭をかばい、固く目を閉じる。
けれど、聞こえてきたのは遠ざかっていく気配。
震えている内にフィロスは横を通りすぎ、森の奥へとさっていってしまった。
「なぜだ、フィロス……」
わけもわからずヨーゼフが呆けていると、
「あーあ、嫌われましたね?」
別方向の茂みからグスタフが出てきた。
月明かりが差し、その姿がかすかに照らしだされる。
つけていたはずの眼帯はなく、彼はなぜか両目を閉じている。右目の下には涙のように血の跡が残っていた。黒い服なので目立たないが、服も血でぬれているらしく血なまぐさい。
「なぜだ。ジャクセンを守るといっていたじゃないか! なのになぜ!?」
ヨーゼフは混乱し、頭をかきむしる。
グスタフは預けていた香を回収しながらあっさりと答えた。
「だから、嫌われたからでしょ。”約束だからジャクセンは守ってやるけど、あんたと一緒にいるのは嫌”ってことだと思いますけど?」
「そんな……! ちゃんと謝ったじゃないか。わざわざこんな森まで出むいてやったのに」
「まあ、その辺は道徳の先生にでも聞いてくださいよ? そんなことより、もう生け捕りにする必要ないですよね? 約束を破るようなタイプにも見えませんし、放っておいて大丈夫でしょう?」
淡々と問う魔術師に無性に腹が立つ。
「なんだおまえは! 俺がこんなに傷ついているのに自分の仕事しか頭にないのか!」
「もちろんですよ? 部下がケガして帰還したというのにねぎらいの言葉一つもない王さまに、金めあて以外で仕えたくありませんけど?」
「おま……っ」
ヨーゼフは更に逆上したが、彼のケガに気づいていながら自分の話を優先させた後ろめたさに我に返る。
「すまなかった。そのケガはどうした……?」
数十秒ほど葛藤してからたずねると、グスタフはとても残念そうな顔で舌打ちした。
「いま、私の中で見捨てたいゲージが少し下がりました」
なんてゲージを溜めてやがるんだ、この男は。
彼は自分の右目を指さしていう。
「実はミカナギ一行に負けまして。命乞いをしたら右目とられてしまいました」
「なんだ、さんざん偉そうなことをいっておいて負けたのか!」
「いやぁ、刀折れ矢つきる勢いで奮闘したんですけどね? すんごいバケモノが出てきまして」
「バケモノ? 言動が軽すぎていまいち真剣味がないが……優しそうな顔をしてエグいことをするな、あの連中」
ヨーゼフがぞっと肩を震わせる。
戦場ではありふれた光景なのかもしれないが、まだ戦に出たことのない身としてはなかなかおぞましい。
「命に比べれば目玉一つくらい安いものですよ? 人でないものに見返りなしで願いごとをしようなんて。己を人外に捧げるか、人外を己のものにする覚悟でもなければしてはいけない」
「は? なにを大げさな。今はともかく、昔のフィロスはなんでもいうことを聞いてくれたぞ」
思い出すとずきりと胸が痛む。
あのとき、地下へ閉じこめたりしなければ今でもきっと……。
「なら、貴方はさっき食い殺されても文句はいえなかった」
そういうものですと彼はいう。
この魔術師の語る理屈は理解しがたい。ヨーゼフがジャクセン国王だということを忘れてやしないか。一国の主の命を他と同列にあつかわれると腹が立つ。
……だが、二つわかったことがある。
フィロスがヨーゼフを拒絶しつつも温情を示したことと。
かつて友であり兄であった神獣は、けしてもどってこないということだ。
「……俺は……これからどうすればいいんだろう」
グスタフはゴキゴキと首や肩を鳴らす。
「とりあえず、帰って寝ましょう? 寝てない頭で考えたっていいこと浮かびませんよ?」
単におまえが眠りたいだけだろう。
そう思ったが、臣下たちも心配しているだろうし早く帰ったほうがいいのは確かだ。
スタスタ先を歩くグスタフの後を追いながら、ヨーゼフは聞く。
「おまえ、盲目になったくせになんでそんなに歩けるんだ?」
「目の代わりになってくれる使い魔たちがいますので?」
もう血も止まりましたしね、と魔術師は自分の横の空間をなでる。
まるで、ヨーゼフには見えないなにかがそこにいるかのようだった。
◆
その後。
ヨーゼフはフィロスについて自分が犯した罪すべてを臣下と国民へ発表し、玉座を降りると宣言した。
そして、死神の仲間たちをみすみすとり逃した罪と合わせて処罰を願う。
「そんな人だとは思わなかった」と妻と子どもには見放され、怒り狂った前王こと父を筆頭に一同から「彼を殺せ」、「八つ裂きにしろ」という意見が殺到した。
その場で集団リンチされる寸前。
王宮のバルコニーからヨーゼフの姿が消え、人がいなかった近くのテラスへまた現れた。腰をぬかしたヨーゼフの首をつかむようにして、グスタフが立っている。
彼はそのまま静かに群衆へ問いかけた。
「神獣フィロスさまが見逃した彼を、あなたたちが殺すのですか? いまここで殺してフィロスさまのメンツを潰すより、恥と罪をかかえながら生き続ける方がヨーゼフさまには辛い罰だと思いますが?」
群衆は少しひるんだものの、納得しない。
それでは手温すぎるとだれかがさけんだ直後、どこからともなく獣の声が聞こえてきた。
フィロスの遠吠えだ。
殺すな。
そんな意思が痛いほど伝わり、一同はとまどい、くやしそうな顔をしながらも沈静化していく。
「フィロス……」
ヨーゼフは泣いた。
それから彼は王族でもなく貴族でもなく。ただの僧侶見習いとして寺院へ入り、生涯を終えることになる。
尊い神獣を穢した者として周囲からの風当たりはキツく、犯罪者のようなあつかいである。けれど、たまに訪れるグスタフと話すときの彼の顔はいつも晴れやかだった。
余談だが、ジャクセン国にはあるウワサが流れ、長くまことしやかに語りつがれる。
ジャクセン国には守り神がいる。
害をなす者には容赦なく、善良な民を陰ながら守ってくれる。
その姿は醜いバケモノだとされていたが、一年ほどすると絵にも描けない美しさだといわれるようになった。