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●雨の夜

 小さなころは雨が怖かった。
 ざあざあという雨音にまぎれて、得体のしれないなにかが後をついてくるような気がしたから。
 小学一年生のとき、私は姉と同じ塾に通っていた。
 母に車で送りむかえしてもらっているので、終わった後はいつも本を読んでまっている。
 塾には漫画から純文学までいろんな本が置いてあったので、退屈したことはない。
 けれど、先生が不意にいった一言でそれどころではなくなってしまった。
「あれ、ひなたちゃん? お姉ちゃんさっき帰ったよ?」
 周囲を見ると、確かに姉がいない。
 本に没頭している間にむかえがきて、彼女だけ連れて帰ってしまったんだろうか。
「……」
 おいていかれたと思うと、じわりと涙がにじんできた。
「大丈夫?」
 心配する先生にさよならを告げ、塾を出る。
 外は夜。
 墨でぬりつぶしたみたいに暗くて、街灯の下以外はなにも見えない。空きビルが多いから余計に静かで、ざあざあという雨の音だけがうるさくひびいていた。
 他の子どもたちはもうほとんど帰ってしまっていて人気がなく、駐車場も空。もしかしたら母と姉がまっているかもと期待したけれど、いない。
 私はあきらめてカサをさし、暗がりの中を進む。
 当時はまだ小学生だったから、携帯やスマホはもっていなかった。
 ぬれた歩道の端に見なれない、気味の悪い植物が点々と生えている。
 おそらくコケの一種なのだろう。でろでろにふくらんだ海藻みたいなものや、腐ってしなびたレタスみたいなものがある。赤茶色の街灯に照らされ、ぬらぬらと光るそれらを見ていると、まったくしらない道を歩いているようで心細かった。
 やがて、歩道のガードレールがひしゃげているのが目に入った。
 どうしたんだろうと下を見て、後悔する。
 そこにはいくつもの花束や花瓶が置かれている。
 だれかが、ここで死んだんだ。
 少しヒヤリとしながら足を速めたものの、その先にはもっとおぞましいものが落ちていた。
 雨に打たれてわずかに光る黒い道路のはし。
 車道と歩道の境目の辺りに大きなはらわたが転がっている。
 大腸か、小腸か、十二指腸か。
 正確な名前はしらないけれど、人間のお腹に入っている器官だということくらいはしっている。赤ともピンクともいえないウネウネした管が楕円形にまとまって、血とも雨ともつかない液体でぬれている。
「ひっ」
 思わず後ずさり、数分間くらい動けなかった。
 頭がまっしろになってしまって、わけもわからずそれを見つめ続けていたから。
 湿気をふくんだ生ぬるい風に混じって、鉄の匂いが鼻をつく。
 我に返ってその場を立ちさりながら、さっき見たもののことを考えていた。
 事故で死んだ人の内蔵だろうか?
 でもおかしい。
 人間の死体の一部がいつまでも道路に放置されるはずがない。すでに花までおかれていたし、なにかの見間違いだろう。何度か見かけたコケの固まりかもしれない。あるいは人間のものじゃなくて、大きな野良犬かなにかが交通事故にあったのかも。それなら内臓だけが残っているのもおかしくない……気がする。
 どちらにせよ、嫌なものを見てしまった。
 ため息をついたとき。
 後ろからだれかの足音が聞こえてふり返った。
 背後はまっくらな闇。ほんのわずかに、遠くで光る街灯だけが見える。雨がカサを打つ音と聞き間違えたのだろう。
 一歩ふみだすと、ま後ろから「パシャパシャ」と水たまりをふむ音がした。
「……」
 背筋がゾクッとして一気に体温が冷える。
 再びふり返るけれど、やはりだれもいない。
 そっと片足を動かし、なるべく音が立たないように地面をふむ。
 ぱちゃん。
 パシャ、パシャ。
 ぱちゃんは私の右足の音。じゃあ、パシャパシャってなんだ。
 だれかが、後ろで二歩あるいてる。手をのばせばふれられるほどすぐ近くで。
 そう考えたら急に心細くなった。
 今にも肩をつかまれそうで。あるいは背中にへばりつかれているみたいで怖かった。
 しばらく我慢して歩いていたけれど、まっ暗な道を歩いているうちにたえられなくなってきて、涙が出てくる。
 泣きじゃくりながら走っていたら、背後から姉の声がした。
「ひなた?」
 二十五メートルくらい後ろに、赤いカサをさした姉が立っている。
「お姉ちゃん」
 黒髪のショートカットに半ズボン。
 二つ上の彼女は場違いなくらいいつもどおりで、とても頼もしく見えた。
 駆けよると彼女は不思議そうに聞く。
「あんたこんなとこでなにしてんの?」
「……」
 さっきの足音は姉だったのかも、と考えてすぐ否定する。
 音が近すぎた。
 あんなすぐそばに彼女はいなかったし、いたらいたで声をかけるはず。
 どう説明すればいいかわからなくて、おいていかれたから一人で帰っていたとだけ話した。
「あたし、お母さんが遅いから一人で帰っただけなんだけど。あんた塾でまってればむかえきたのに」
 おいていかれたわけではなかったらしい。
「ま、いいか。帰ろ帰ろ」
 前を歩く彼女の姿に安心しながら、私はそっと後ろをふり返った。
 暗い歩道の隅に雑草が生えている。雨に打たれてしなびたその影に、人間の両目が
浮かび上がっていた。
 頭や鼻、顔の皮膚などはまったくわからない。
 黒い影の中に、目だけがくっきりと見えている。明らかにおかしい位置にあるのに、その目つきは普通の人間とまったく変わらず、こちらを観察するような表情をしていた。

◆

 いま思えば、あれは幽霊だったのかもしれない。
 そんな昔話をすると、
『むしろ、なんで今までそう思わなかったのかが不思議なんだけど』
 電話相手はくすくすと笑った。
「あのころは幽霊のことしらなかったから」
 なんとなく、人にいってはいけないような気がしていたし。
『で、お姉ちゃんと合流してからは家に帰れたんだ?』
「うん。お母さんはすごく怒ってたけど」
 ちなみにあれから年月がたち、今はもう高校生である。
 自宅のベッドでごろごろしながら答えると、低く艶のある声が楽しげにいう。
『つーかさ、その話。もう一つ変なとこあるよな』
「え?」
『なんで先に帰ったお姉ちゃんが後ろからくるんだ?』
 塾から家までは一本道だ。
 あの雨の夜を思い出し、ぞわぞわと背筋に悪寒が走った。
 絶句していたら、電話口で彼がはしゃぎだす。
『怖い? いま怖い? だったらさ、いまからむかえに行くからデートしよ』
「……なんで?」
『楽しいことしてれば霊のことなんかどうでもよくなるよ』

●たたり

 高校1年生になったばかりの4月。
 できたばかりの友達と二人で、私はちょっと緊張しながらお昼ごはんを食べていた。
「……」
「……」
 沈黙が気まずい。
 さっきまでテレビの心霊特集の話でほんのり盛り上がっていたのに、すっかり話題がとぎれてしまっていた。
「ごめんね。私あまり話すの得意じゃなくて……」
 伊藤さんが申し訳なさそうにいう。
 彼女は昔から病弱で、入院ばかりしていたから人づきあいが苦手なのだそうだ。
「ううん、気にしないで。私も話すの苦手だから、むしろ親近感わくかも」
 この場に中学の友達やあの人がいれば、ノンストップで話してくれるんだろうけど。
 大人しい友達というのは初めてで、新鮮だった。
「ほんと? よかった」
 はかなげな美少女と微笑み合っていたら、マナーモードのスマホが震えた。
 ウワサをすればなんとやら。
 液晶画面に”高橋和也(たかはしかずや)”と表示されているのを見て、内心ドキリとする。
「でなくていいの?」
「……うん」
 伊藤さんの問いにうなずいて、私はそっとスマホをしまった。
 ちょっとかわいそうな気もするけど、学校にいるときは電話でないよと散々いっているのにかけてくるのが悪い。大事な用なら留守電に入れたりメールしたりするだろう。
「そういえば、怖い話が一つあるよ」
 二人とも怪談が好きだから、ちょうどいいだろう。
 電話相手から聞いた話を思い出して口を開いた。
「知り合いにみえる人がいるんだけど、その人がある女の人に相談を受けたんだって」
 うちの家系は流産が多い。生まれても小さい内にすぐ死んでしまう。なにかのたたりじゃないでしょうか、と。
 相談者の母は何度か流産し、それから生まれたのが相談者とその姉、兄が二人。
 一人目の兄は5歳のときに事故で亡くなった。
 姉は二度流産し、三度目でようやく子どもが生まれた。
 相談者は流産しなかったが、子どもは2歳のときに病気で亡くなってしまった。
 母が初めて流産した時から医者にはよく相談していたし、妊娠中にも気をつかっていたのに。
 そう語る相談者に知人は「お母さんは理由を知ってますよ」といったらしい。
 相談者の父だと思われる、昔気質なおじいさんが見えたそうだ。
 猟師なので大きく獰猛な猟犬をつれて山へ入るのだが、その猟犬のあつかいが酷い。
 猟のとき以外はせまいオリに閉じこめ、ろくに散歩も行かない。
 いうことを聞かなければ棒でどつくし、すぐ殺してしまう。そのくせまたすぐ新しい犬を買うのだ。
 猟犬とは別の犬も愛玩用に飼っていたようだが、子犬を妊娠したら子犬ごと殺した。
 要するに今まで殺してきた犬のたたりですねというと、心当たりがあったらしく、相談者が青ざめる。
「確かに父は人間以外には酷い人だったけど。でも、どうして父じゃなくて私たちに祟るんですか」
「あなたのお父さんは強すぎて祟れないから」
 まあ、もっと歳とって弱ってきたらそっちに祟るかもしれませんけど。
 知人はそう答えて、彼女のお腹を指さした。
「この子で死んだ犬と同じ数になる。たたりはこれで終わりですよ」
「この子まで流産するっていうんですか!?」
「いや、この子は奇形で生まれます」
 彼女のお腹はまだ平たかったけれど、妊娠した後では自分はなにもできない。
 知人はそれだけ答えた。
 相談者の女性がそれからどうしたのかは、だれもしらない。
「怖いね」
 伊藤さんが青ざめてつぶやく。
「うん」
「たたりも怖いけど、保月(ほづき)さんの知り合いがちょっと怖い」
「えっ」
「しられたくないこととかも、ぜんぶ見透かされそう」
 確かに異様に勘が鋭くて、話してないことまでしっていたり、会いたいなと思っていたら会えたりする不思議な人だが。
「いい人だから、怖くないよ」