1.高橋さん

 高校受験をひかえた中学二年生の夏。
 進学校めざしてるくせに成績がどん底だった私に、親が家庭教師をつけた。
 はじめての授業の日。
 人見知りするから少し不安だったけれど、母の肩ごしに目が合ったとたん「あ、なんか大丈夫かも」と力が抜けた。
 上手くいえないけど、第一印象で気が合うかどうかわかる時ってあると思う。
 あとから「思ってたのとぜんぜんちがう!」となることもあるから、あまりアテにはならないが。話しやすく優しそうな人に見えた。
「よろしく」
「……よろしくお願いします」
 名前は高橋さん。
 教え上手でおしゃべりな爽やかイケメン大学生。
 背は平均より少し高いくらいで、家庭教師だけあって真面目そうな外見。少々ミスしようが宿題をやり残していようが、嫌な顔一つせず優しく教えてくれる。そのせいか、私はすぐになついた。漫画や動物が好きなど、いくつか共通点があったのも大きいかもしれない。
 おかげで、勉強がほんのり面白くなってきたある日の夜。
 私はいつものように自分の部屋で高橋さんとイスを並べ、机に向かっていた。
 窓からは生ぬるい風が入ってきて、じんわりと暑い。
 めずらしくセミの声がしないせいか静かで、扇風機とシャーペンを走らせる音だけが室内に響いている。
 そんなとき、ふわりとフローラル系の香水の匂いがした。
 男物にしては甘すぎるし、たまに高橋さんがつけているものとは系統がちがう。
 移り香ってやつかな。
 なんて下世話なことを考えていたら、「ぎしっ」とだれかが背後のベッドにすわった気配がした。
 え?
 室内には私と高橋さん以外だれもいない。
 そして彼はずっと左にすわっている。
 確かにベッドが人の体重できしんだ音がしたと思ったが、ふり返ってもそこにはなにもない。
 なんだか背筋がぞわぞわした。
 ただの気のせい、かな。
 気をとり直してテキストの続きを解いていると、頭のすぐ上で「はあ……」とため息が聞こえた。
 まるでだれかにノートをのぞきこまれたような距離だと思ってしまって、ぞわっと全身に鳥肌が立つ。
 明らかに女性の声だった。
 幻聴にしては嫌に生々しく、隣家の声にしては近すぎる。
 ため息がした辺りや部屋中をみわたすが、やっぱり他にだれもいない。
 恐怖にかられて高橋さんをふり返ると、彼はこちらを見てニヤニヤ笑っていた。
「わかる?」
「え?」
「わかる?」
 あまりに落ちつきはらった態度なので、解いている最中の問題のことを聞かれているのだと思った。
「あ、まだ考え中」
 我に返って考えてみれば下の階には家族がいるし、同じ部屋に高橋さんもいる。幽霊だなんだと騒ぐのは恥ずかしい気がした。
 勉強が嫌だからボイコットするつもりだと思われるかもしれない。
 あわててテキストにむき直ると、意味不明なことをいわれた。
「大丈夫。ちゃんと連れて帰るから」
 何のことだと思ったが、「30分で」といわれた問題の制限時間がせまっていたので、その日は聞き流した。
 後日、同じく家庭教師の時間。
 高橋さんが軽く告げた。
「実はあのとき、肩に女がのってたんだ。大学からついてきちゃってさ」
「女?」
 冗談めかした口調だったのでツッコミまちかと思ったが、「電波あつかいされたらヤだな」という保険のようにも見えたので、私は普通にしていた。
 第一、オカルトは大好きだ。
「そう、悪いもんじゃないんだけど。ずっと服ひっぱってくるし寒いし肩こるし、まいった」
 こんな感じ、とつんつん服をひっぱってくる。
 風がそよぐ程度の力だが、さすがにちょっと気味が悪い。
「変なの連れてこないで」
 つい身を固くすると、高橋さんが笑った。
「大丈夫、もういないから」

◆

 自分が怖い目にあうのは嫌だけど、怪談を聞いたり話したりするのは大好きだ。
 そんな私が霊感もちの家庭教師に怪談をせがむのは自然の摂理というか、レンジに卵を入れたら爆発するのと同じくらい当然で、これはその内の一つ。
「大学にでる教室があるんだ」
 授業の合間、たくさんテキストを広げた机の前で高橋さんがいった。
「黒い人影、白目がない女、普通の人。見るやつによって証言はバラバラだけど、目が合うと家までずーっとついてくるってのが共通点で。もう一度その教室に行くまで毎晩金縛りにあうんだってさ。面白そうだろ?」
「聞くだけなら」
 私だったら絶対行かないが、彼はくだんの教室をのぞいてみたらしい。
 夏休み中のオープンキャンパスで人はごった返していたが、その教室は使われておらず、がらんとしていた。
 その中に、ぽつんと席にすわる女。
 ここの学生だったんだろう、二十歳くらいで、黒髪のショートカット。ニットの長そでにジーンズと明らかな冬服で、憂鬱そうに頬杖をついている。 
 まばたきすると、彼女は消えていた。
 けれど、それから常に気配を感じる。ふと気がつくと、物陰に女の手足、顔がのぞく。
「それってまさかこの前の」
 顔を引きつらせると、彼は笑顔でうなずいた。
「そ。この家にいる間とか、俺の家についた時とか”ちがう、ちがう、ここじゃない”って俺の服ひっぱりながらずーっとぶつぶついってた」
「それで、その人どうしたの?」
 まだこの部屋にいるとかいうんじゃないだろうな。
「ん? 教室にもどしたから、まだあそこにいるんじゃない? 昼も夜もずーっと。それか、別のやつにくっついてるよ」
「ついてこられたら嫌だけど、ちょっと可哀想だね」
 うちわで扇ぎながら告げると、意味深な瞳がこちらを見た。
「同情すると憑かれるよ」
「その大学には行かないから平気」
 高橋さんがけらけら笑う。
「あんなの怖くないって。前もいったけどそんな悪い奴じゃないから。あれより下の階のほうがよっぽど怖い」
「何があるの?」
「ベタだけど、トイレ。掃除してあって清潔感はあるし、ちゃんと電気ついてんのになーんか全体的に暗い。ふっと顔上げたら個室にでっかい顔がすんごい形相で浮かんでてさー。それからあそこは使ってない。見えてない奴でもなんか怖いってすぐ出てくるし」
 その話を聞いて、私はある事を思い出した。
 一時期よく通っていたデパートがあるのだが、そこのトイレが高橋さんの話と同じように『電気がついているのにとても暗い感じがして、不気味で背筋が寒くなる』トイレだったのだ。
 他に人がいなければ怖くて入れない不気味さだったのだが、そのデパートには他のトイレがなかったため、我慢して何度か使っていた。
 とはいっても、怖いだけで害はなかったけれど。
 高橋さんが帰ってから、パソコンでそのデパートの名前、トイレ、などのキーワードで検索してみた。
 適当にクリックしたページにはこう書かれていた。
「●●デパートのトイレには逆さづりの女の幽霊が出る」

◆

 夏の盛。
 じっとりした熱気に包まれたある晩、私は友達と五人で花火大会へ出かけた。
 駅でまち合わせして、河川敷へ歩く。
 花火が始まる前に晩ご飯と飲み物を買いに行こうという話になったのだが、全国的に有名な花火大会だからかどこの露店もすごい人混みで、並ぶだけでも苦労しそうだった。友達の一人が靴ずれをして足が痛いと訴えたこともあり、買いに行くものと残るもので分かれることにした。
 私は買い出し組になり、明里(あかり)という友達と二人で雑踏へ入った。
 アイドルみたいな雰囲気のある、華やかでお洒落な子だ。この日も大きな髪飾りがピンクの浴衣によく似合っていた。
 花火を観るポイントと露店は離れていて、けっこう歩く。
 やがて、ものすごい渋滞に入ってしまった。
 道が満員電車みたいなのだ。
 視界がすべて人で埋まっていて進む速度も遅いが、ここを抜けないと露店へ行けない。
 早く座って花火を観たかった私はちょっとでも先へ進もうと躍起になっていた。
 前の方へ進めそうなスペースができたので、「あそこへ行こう」と明里をふり返る。
 同時に彼女に手をつかまれた。
「引き返そう」
「えっ」
 せっかくここまで来たのに。お腹も空いたしのども乾いたし。
 そう思ったが、次の一言で頭が冷えた。
「こんな所にいたら将棋倒しになる」
 いわれてみれば。
 周囲は満員電車もかくやといわんばかりだし、彼らは前へ進みたくてイライラしている。
 私も彼らと同じだったわけだが、こういう状況で理性的に物事を考えられる彼女は賢いなあ、とちょっと尊敬したのを覚えている。普段から明里は賢いが。
 私は友達に手を引かれるまま、元来た道を引き返していった。
 しばらく歩いて、
「晩ご飯どうしよっか。遠くの夜店に行ってみる?」
 他の友達の分も頼まれてるしとつぶやくと、ようやく彼女が足をゆるめる。
「あたし、今から帰ろっかなぁ」
「え? なんで?」
 いつの間にか、明里はひどく青ざめていた。
「ひなちゃん、今どこ通ってきたか覚えてる?」
「どこって……」
 ついふり返る。
 後ろにさっき通ってきたばかりの道がある。
 大きな鉄橋の下で、他の場所より一層うす暗い。
 そこにはだれもいなかった。
 今の今までおぼろげに見えていたはずの露店の灯りや、上に飾られていた提灯もない。
 少し目を離したすきに、花火会場から外れたどこかへ迷いこんでしまったかのようだ。
「……さっきまで、いっぱい人がいたよね?」
 ずっと人の川が続いているかのように、道の先まで人で埋まっていたはずだ。
「あたしにはみんな黒こげに見えたけど」
 急に気温が下がった気がする。
 その後、まっていた友達には「すごい人混みで買えなかった」とだけ告げ、花火を鑑賞してからファミレスで食事をして帰った。
 帰り道はなにもおこらなかった。
 ただ、あのとき明里が「引き返そう」といわなかったらどうなっていたのかと考えると、しばらく夜に出歩く気にはなれなかった。 

◆

「変なとこ行っただろ」
 家庭教師の日、来るなり高橋さんが指摘した。
 なにも話していないのに確信に満ちていて、「やーいやーい」とはやしたてそうな笑顔だ。
「●●の花火大会に行っただけだよ。変な目にはあったけど」
 詳しく話すと、
「ハイハイ、あそこね。あの鉄橋の下のとこだろ。俺も行ったことあるけどあそこよく出るよ。知らなかった?」
 そんな事をいわれて絶句する。
 大学にトイレに河川敷までそうなんて。
「全国、心霊スポットだらけじゃん……!」
「うん、幽霊なんてそこらにいるよ」
 私の宿題をパラパラめくりながら、高橋さんが笑う。
「ひなだけだったら何もなかっただろうけど、たぶんその友達がひかれやすい体質なんだろうな。でもその子が引き返してくれたんだから、イイお友達じゃん?」
「うん」
 私の名前は”ひなた”だが、高橋さんは”ひな”と呼ぶ。呼びやすいのかわからないが、友達にもそう呼ばれることが多かった。
「次のカテキョまで怪談はやめといた方がいいな。怖い話は読むのも聞くのも観るのも禁止。楽しいことだけ考えな」
 バシ、と高橋さんに軽く背中をたたかれた。
「あとは……怖かったら窓に塩盛っとけ」
 だんだん不安になってくる。
 あれからなにもないけれど、実は危なかったりするんだろうか。
「自分の部屋だけでいいの? ていうか何かいるの?」
「この部屋だけでいーよ」
「なにかいるの?」
「次くる時まで怖い話は禁止っていったろ」
 そんなこといわれたら余計気になる。
 不満げな視線を送ると、高橋さんはぽつりといった。
「茶、飲みすぎ」
 彼が来てから約30分。
 その間に私はお徳用ペットボトル二本分の麦茶を消費していた。
「何かあったら電話しておいで」
 授業が終わったあと、不吉な言葉とともに高橋さんは帰って行った。
 「怖かったら盛り塩」ということは特にやらなくても問題ないだろうと判断して盛り塩はせず、楽しいことをしろといわれたので、その夜は友達に借りたDVDを観ていた。
 あまり興味のないドラマだったが観てみると面白く、気づけば夜中の二時四十分。
 部屋にテレビがないのでパソコンで観ていたのだが、いきなり部屋の電気だけがフッと消えた。
 モニターの光だけがフラッシュのように目に焼きつく。
 DVDは何事もなく再生されている。
 反射的に肩がはねたものの、すぐに電気のスイッチを押す。
 部屋の電気がついた。
 電球の接触が悪いんだろうか。そろそろ換え時かもしれない。
 そんな事を考えて、その日は切りの良い所までDVDを観て眠った。