2.コン、コン。

 恐怖を覚えたのは次の夜からだった。
 いつも眠ると朝までおきないのに、その日はどこからかノックの音がして夜中に目が覚めた。
 まだ眠たいので構わずに目を閉じていたら、「コン!」とひときわ大きな音。
 少しイラッとして目を開けると、暗い室内で時計の針だけがぼんやり光っていた。蛍光塗料がぬられたそれは3時前くらいをさしている。
 辺りを見回すと、真横から「コン、コン」。
 それはベッドの真横にある窓の外から聞こえてきていた。
「……」
 背中がヒヤリとする。
 私の部屋は二階にあるし、窓の下に足場もないから人間じゃない。
 ふと「幽霊的なものが外から窓をノックしていたらどうしよう」と嫌なことを考えてしまった。
 でも、今は夏だ。なにか大きな虫が窓に体当たりしているだけかもしれない。
 そうは思ってもカーテンを開けるのが怖かった。
 まともに幽霊らしきものを見たのはあの花火大会が初めてだし、それすらもよく覚えていない。今までそんな感じだったんだから、これからも幽霊を目撃する可能性は低い……と思いたい。だいたい行きたくて心霊スポットに行ったわけじゃないんだし、祟られる覚えもない。
 でも、万が一窓のむこうに嫌なものが見えたら。
 それが虫じゃないことが確定してしまったら。
 コン、コン。
 音はずっと続いている。
 私はそっとベッドをぬけだし、壁にある部屋の電気のスイッチを押した。
 つかない。
 ぶわっと嫌な汗をかいた。
 カチカチ、カチカチ、カチカチカチカチ。
 何度も何度もスイッチを押すが、反応がない。
 パニックになりそうになって、昨夜のことを思い出す。
 単に電球が切れただけだ。他の部屋の電気ならつくかもしれない。
 だが、この状況でドアを開けて真正面にあるトイレを見るのが怖かった。
 怪談にトイレはつきものだ。
 しかも、この前の「トイレに出るという逆さづりの女」が頭に浮かんでしまって余計イヤだ。いくら何でも自宅のトイレには出ないことくらいわかっているが、怖いものは怖い。
 かといって、窓のそばのベッドで寝直す度胸もない。
 かなり迷い、ためらったあげくにドアノブに手をかけた。
 廊下はまっくらだが、すぐそばに両親や姉のいる部屋がある。姉の所でいっしょに眠らせてもらおう。
 そう思っていたのに、ドアは開かなかった。
 私の部屋にカギはついていない。
 たてつけが悪いわけでもない。
 ドアノブが動かないのだ。
 それも奇妙な感触がする。力加減によって動く範囲がちがう。軽く手をかけただけだとぴくりともしないが、思い切り力をこめると一瞬ドアノブが動いて、その後すぐに戻されるのだ。
 まるで、だれかが外からドアノブを押さえているみたいで気持ち悪い。
 もう泣きそうだった。
 大声で助けを呼ぼうか。でも夜中だし。緊急事態ということで。いやでも大声を出したら逆に窓やドアの外にいる何かからリアクションがあって怖いかもしれない。
「……」
 どうしようもなく、私は壁を背にすわりこんだ。
 窓にはカギがかかっているが、ドアから入ってこられたら怖いのでドアの前にはイスを置いた。
 やがて外が明るくなり、新聞配達の音が響いてくる。
 気がつくと窓の音は消えていた。
 おそるおそる電気のスイッチを押す。
 普通に電気がついた。
 電球も切れていないらしく十分明るく、点滅するような様子もない。
 イスをどかして部屋のドアノブに手をかけると、今度はちゃんと開いた。
 もう、大丈夫だ。
 肩の力をぬいて、部屋のカーテンを開ける。
 窓はすすだか土だか、得体のしれない茶色いもので汚れていた。

◆

 それから姉のベッドにもぐりこんで眠り、昼ごろ。高橋さんに昨夜の出来事をメールした。
「水とか線香とかお供えしたほうがいいのかな?」
 明里が「みんな黒こげに見えた」といっていたのと、あれからずっと異様にのどが渇くのは何か関係があるかもしれないと思ったからだ。窓についていた茶色い汚れも気になる。
 火事か何かで亡くなった人たちが憑いてきているのでは? というのは考えすぎだろうか。
 高橋さんからの返信は。
「仮に水が欲しくてたまらない100人がいたとして、その内1人だけに水をあげたらどうなると思う? 一生そういうのとつき合いたいなら別だけど、そうじゃないなら何もしない方がいい。全部ただの気のせいだと思え」
 との事だったのでお供えはやめておいた。
 夜は姉に事情を話し、一緒に寝させてもらうつもりでいたのだが、
「今日から友達とキャンプ行くから。グッドラック!」
 そんな一言で薄情者は午後にはいなくなってしまった。
 こうなったらお母さんと……と思ったものの、中学生になってまで母親と一緒に寝るのはいかがなものか。
 けっきょく、廊下で暑そうにのびていた愛猫チャロを拉致してリビングにいすわった。
 トラ模様のオス。おデブだがだれにでも愛想のいい、かわいいやつである。
 念のため、自分の部屋とリビングの窓には塩を盛ってある。
 あられもない格好で眠るチャロを横目に、私は安心してコメディドラマを観た。
 深夜の2,3時が怖いと感じるようになっていたので早く寝るつもりだったのだが、夏休みで少し体内時計が狂っていて寝つけず、そのまま2時を過ぎてしまった。
 軽く緊張しつつ、チャロの腹をなでる。
 こちらの心境などお構いなしに笑うドラマの俳優の声と、時計の音だけが室内に響いている。
 ……なにもおきない。
 一応3時を過ぎてから眠ろうか、とうとうとしていたとき、唐突にテレビの電源が切れた。
 もちろんリモコンには触っていない。
 十歩くらい離れたテーブルに置いていたリモコンをとってスイッチを押す。
 テレビがついた。
 が、リモコンをテーブルに戻したとたんにまた消えた。
 だんだん背中がぞわぞわしてくる。
 電源のついていないテレビのまっ暗なブラウン管に幽霊が映っていた、なんて怪談でよく聞く話だ。嫌だぜったい見たくない。
 リモコンから電池をぬき、直接テレビをつける。
 今度は消えなかった。
 が。
「ニャアン」
 床で万歳して転がっていたチャロが、リビングの窓にむかって鳴いた。
 この猫が家の外へ遊びに行くのは日常茶飯事だが、鳴くのは珍しい。外へ出して欲しい時は無言で足に身体をすりよせるか、人の手に自分の鼻をタッチしてくる。そういう風に教えていた。
 チャロはじいっと窓の外を見つめている。
 今夜は一人じゃないし、と勇気をだしてカーテンをめくるがそこにはなにもない。墨をぬったような暗闇にうっすらと外の景色が映っているだけだ。
 チャロを抱きよせ、テレビをつけたまま毛布を被った。
 暑かったせいかチャロはすぐ床に逃げたが、それから奇妙なことはおこらなかった。
 ……そう思っていたが、朝目をさますと母が青ざめた顔つきでベランダに塩をまいていた。
 ベランダはリビングの窓を開けてすぐの所にある。
「なにしてんの?」
 問うと、母がそそくさと中へ入ってくる。
「チャロを外に出そうとして窓を開けたら、一瞬ベランダに黒い影がいたの」
 あ、やっぱりいたんだ。
 彼女には家庭教師に霊感があるらしいことも、我が家で怪奇現象がおこっていることも知らせていない。けれど、母は幽霊を見るのが嫌で毎晩電気をつけて寝るほどで、過去にも何度か幽霊を目撃したり予知夢らしいものを見たりしていたので納得した。
 その晩は怖いことはおこらず、翌日の夕方に高橋さんが授業にやってきた。
「どうだった?」
 私の部屋に入るなり、面白がるように問う。
「ちょっとあせった」
 数日間の冷や汗体験を話すと、少しつまらなそうというか、ひょうしぬけしたような顔をした。
「ひなはホント見えないんだな。一度ヤバめの心霊スポット行ってみるか? 見えるようになるかもよ」
「ぜったい行かない」
 そもそも見たくない。
 速攻でお断りすると彼はおもむろに席を立ち、イスの後ろに回って背もたれを片手でつかんだ。
「なに?」
「背もたれがひなの肩な。このまえ来たとき、こんな感じで黒こげの骸骨がひなをつかんでたわけ。で、それを」
 もう一つの手でバシっとふり払う。
「こんな風にしたから怒って微妙な出来事をおこすようになったと」
「そういえば、花火大会に行った日の翌日は大丈夫だったような……あと、昨日も平気だったけど」
 高橋さんが笑った。
「お盆が終わったからな。もうなにもないと思う」
 本当にしばらくはそうだった。

◆

 私には霊感もちっぽい知り合いが数人いる。
 その内の一人、クラスメイトの戸和(とわ)さんは「他人の守護霊が見える」と評判で、軽い占いや霊視もできるらしく、クラスメイト以外にもいろんな人が彼女に頼んでいる姿をたまに見かける。私も他の子たちのように守護霊を見てもらいたかったけれど、仲良くもないのにそんなミーハーな頼みごとをしたら嫌われそうで、頼んだことはない。
 ある日、学校の休み時間にクラスの女子だけでカラオケに行こうという話になった。
 友達が行くので私も行くと答え、近くにいた戸和さんはどうするかたずねると、
「私いそがしいから行かない」
 愛想よく笑って彼女はいい切る。
 霊感がある、というと暗い感じの子を想像しがちだが、戸和さんは高橋さんみたいに明るくて社交的なタイプの子だ。態度もサバサバきびきびしていて、野球かサッカー部あたりのマネージャーにいそうなイメージがある。
 オカルト関係の話題も自分から積極的に語ることはせず、知っている人から問われたときは正直に答えている。ひけらかさないが、かくしもしない。そんな彼女のスタンスがひそかに好きだった。
「そっか、残念」
「行かないほうがいいよ」
 小声でささやかれてギョッとする。
「なんで?」
「奈緒美(なおみ)ちゃんが行くから」
 奈緒美ちゃんはクラスのリーダーみたいな子だ。私はまだ話したことがなく、好きでも嫌いでもない。
「嫌いなの?」
 こちらも小声でこそっと問う。
「苦手かな」
 それきり、彼女はさっと立ち上がってトイレに行ってしまった。