その75


 鋭利な風切り音とともにエマの長い髪が数本、宙に舞う。
「どけっていったはずだけど」
 いつのまにか、オオゲジサマの右手が獣のように変化していた。長く切れ味の良いかぎ爪を刃物のようにゆらしている。
「な、なにを……!?」
 突然のことに、エマは青い顔で凍りつく。
「どかないなら……」
「鬼ですかあなたは」
 殺気すらただよわせる異形の少年の腕を、ナギは軽くつかんだ。
 あっさり振り払える力量差だが、彼はおどろいた顔をして動きを止める。
「なんで止めるの?」
「いや、いまのはだれでも止めると思います。人様のうちでいきなりなにしてるんですか」
「竜王にとどめを刺すだけだけど?」
 かすかにただよっていた彼の気配を察知し、そのために来たのだと主はいう。
 話を聞いていたエマが青ざめ、竜王をかばうように両手を広げた。
「や、やめて! ぽちを殺さないで!」
 ぽちってなんだぽちって。竜族の頂点の名前がそれでいいのか。
 つっこみたいのを我慢しつつ、ナギはいった。
「殺さないであげてください」
 オオゲジサマが首をかしげる。
「どうして? こいつ嫌いなんでしょ? ユルドゥズ殺したし、僕も双子も殺されかけたし」
 僕だってこんなやつ嫌いだ、と黒い瞳がこちらを見つめる。
 心の中をすべて見透かされ、支配されてしまいそうで少し怖い。
 神や魔性に魅入られる者の気持ちがわかる気がする。人間ばなれした美貌で甘く優しくささやかれると、途方もなく抗いがたい。
「嫌いですよ。本当はもう二度と顔も見たくなかった」
 ナギは素直に白状する。
「でも、エマに罪はありませんから」
 折れるつもりがないとわかると、オオゲジサマはすねてしまった。
 攻撃は中断したが、無言の抗議をしつつ傍観している。
 それから、ぷるぷる震えながら竜化しようとするエマをなんとかなだめること数分。
 ひとまず落ちついてからナギは口を開く。
「どうしておきないんでしょうね、この人」
 かすかだが呼吸はしている。
 けれど、おそろしく生気がない。
「魔術師や呪い師を何人かつれてきて見せたけど、みんなわからないっていってた……」
 エマが肩を落とす。
 ナギは主の様子が気になった。へそを曲げた彼はその辺のイスに腰かけ、押し黙っている。ちなみに手は元の人型へもどしていた。
「オオゲジサマ、なにかわかりますか?」
「教えない」
「やっぱり、なにかしってるんですね」
 なにもわからなければわからないで、なにかいいそうな気がしたのだ。
「お願い、ぽちを助けて!」
 わらにもすがる勢いでエマが彼の前にひざをつく。
「ヤダよ。なんで僕がそんなことしなくちゃいけないんだよ食うぞ」
 少年がかすかに牙をのぞかせると、エマは半泣きでナギにしがみついてきた。以前翼を食べられたことでも思い出したのかもしれない。
「……けて」
「え?」
 彼女が耳元でなにかをささやく。
「ぽちがあなた達になにをしたのかはしらないけど、代わりに私がなんでもする。何度でも謝る。それで気が済まないなら私を殺してもいい。……だから、お願い。彼を助けて」
「助けたいのは山々なんですが、私もいったいどうすればいいか……」
「あなたがキスの一つでもすれば、あのひと助けてくれそう」
「な……ッ!? なななんつーことをいうんですか!」
 自分たちはそーいう関係ではないとさけびかけるが、エマの必死な顔を見て言葉を失う。
 「お願い、お願い」と泣きながらこちらを見つめる彼女はどこの小動物かというくらいに愛らしかった。やっと会えた恋人が死にかけていて、胸がつぶれる思いなのだろう。
 ……ならばしかたない。
 自力でなんとかがんばろう。
「私のご先祖さまはそらもうすっごい呪い師だったのです。私にもなにかできるかもしれません」
「ナギがキスしてくれるなら助けるよ」
 なにか聞こえたような気もするが幻聴だ。
 ナギは死んだように眠っている竜王を観察する。
 やっぱり、特に異常はないように思える。
 物を落としたり大声を出したり、周囲でうるさくしてみる。ダメだった。
 冷たい水をちょっとかけてみる。ダメだった。
 ほおをつねってみる。ダメだった。
「……おきませんね」
「キ」
「聞こえませんなにも聞こえません」
 なにかいいたげな二つの視線が背中にグサグサ刺さっているのを無視しつつ、ナギは首をひねる。
 ふと、以前会った魔術師エムリスがやっていた技を思い出した。
 両手で三角形を作り、それを通して竜王を見る。
 白い糸のような光が彼の身体から出ていた。それは彼の胸の辺りからのびて、天井近くでたゆたっている。天井から先はもやがかかったように消えていてわからない。
「糸?」
 三角形をとくと見えないが、見えた辺りに手をのばすと感触があった。
 軽く引くとまだ先がある手応え。
 そのままするするたぐりよせていくと、丸い発光物体が現れた。
 青白い鬼火に似たそれは弱く呼吸するように点滅している。
 なにこれ。わからん。
 でも、なんとなく。世に聞くアレの特徴に似ている。
 もしかして、たましい……?
 とりあえずつかめたので、竜王の胸元にグイグイ押しつけてみるとそれはあっさり吸いこまれていった。
「う……」
 竜王がかすかに身じろぎし、エマが彼にかけよる。
「ぽち!」
 こんなのでいいのか。
 そしてもしかして、重症を負った衝撃でたましいぬけてたからおきなかったとかそういう理由なのか。
 キツネにつままれたような気持ちでナギが呆然としていたら、オオゲジサマが興味深げにこちらを見下ろす。
「一度空を飛んだ鳥は羽を切られても飛べちゃうものなのかな。理論上は飛べないはずなんだけど……それとも、単に成長期で力が上がってるだけなのか。あるいは案外、今までの御巫もやり方さえしっていたらわずかな呪力で術を使えたのかもしれないな」
「なんの話ですか?」
「気にしなくていいよ」
 そんな話をしているうちに、エマたちの方がなんだか妙なことになっていた。
「あの……ぽちの記憶がないみたいなんだけど……」
「えっ」
 あわててそちらを振り返ると、上半身をおこした竜王がきょとんとしている。
 ころころ姿の変わるオオゲジサマはともかく。ナギを見ても特に反応がない時点で予感はしていたが、極めつけは彼の一言。
「ここはどこだ? 君たちは?」
「……」
 ナギの背中を冷や汗が伝う。さーっと血の気が引く音が聞こえた。
「もしかして、私のせいですか? たましいグイグイやりすぎたからああなっちゃったんですか?」
 主に近より、こっそり小声で問うと「ないない」と軽く返されてとても安心する。
 ろくな知識もなく人命救助してはいけないのだと身にしみた。なにが事故につながるかわからないし、なにかあっても責任などとれない。
 オオゲジサマがイスから立ち、エマへ告げる。
「おおかた、仮死状態になったときに受けた傷で記憶喪失にでもなったんだろ。そんなことまでこっちはしらないよ。元々そいつは僕らの敵だし、これ以上なにかしてやる義理もない」
 もう行こう、とナギをうながす。
 彼はすぐに家を出て行ってしまい、あわてて後を追った。
 海岸沿いの道を歩き、元の港へともどっていく。
「とんだ無駄骨だったなぁ」
 あくびをかみ殺しながらオオゲジサマがいう。
「あの、ありがとうございました」
「なにが?」
 心当たりがないといった風にいわれて、ナギは笑う。
「まって!」
 そんな声がして足を止めると、エマが後ろから追ってきた。
 彼の記憶をもどしてくれと頼まれても困る。
 軽く身構えてしまったものの、彼女は意外な言葉を口にした。
「ぽちがあなた達に酷いことをしたみたいで、ごめんなさい。そして、彼をおこしてくれてありがとう」
「え、でも……」
 長年つれそった夫に忘れられたら、どうしても悲しいし傷つくだろう。
 いいよどんでいたらエマが一瞬泣きそうな顔をしたが、涙がこぼれる前に彼女はにっこり微笑んだ。
「記憶がなくても、彼が生きていてくれるだけで嬉しい。もうおきてくれないかと思っていたから……」
 彼女は器用に指先だけを竜化させ、爪で自分の長い髪をバッサリ切り落としてしまった。
「お礼がしたいけど、私はなにももっていないからこの髪をあげる。竜の髪は呪具になるし、高く売れるはず」
 フィロスの牙の値段を思い出す。オオゲジサマの爪や牙も同じくらいだといっていた。竜の一部もとんでもない値がつきそうだが、特にお金には困っていない。
「高価すぎて受けとれません。別になにもしなくていいですよ」
 ナギがそういうと、エマはしょんぼりと肩を落とす。
 この世の終わりみたいな顔でこちらを見つめてくる。
「もらって、くれないの……?」
 オロオロしだした彼女を見て、手をのばした。
「やっぱりもらいます。ありがとうございます」
「うん! もらって!」
 エマはぱあっと表情を明るくする。
 そしてナギたちの姿が見えなくなるまでブンブン手をふって見送ってくれた。
 海岸から遠ざかり、港にもどってきてからオオゲジサマが聞く。
「本当に助けて良かったの?」
「……」
 ユルドゥズは竜王に殺されたのに、彼は妻と幸せに生きるのか。
 そんな暗い考えは浮かんだ。
 もしエマがいなくて、仮死状態の竜王だけを見つけていたら見殺しにしたかもしれない。
「もう終わったことです」
 きっと二度と会わないだろうし、これでいい。
 そういうことにしておこう。

◆

 それから少し後のこと。
 とある国が竜を見かけ、どこかへ逃げた死神の残党狩りの協力を頼んだ。
 けれど、あっけなく断られてしまう。
 竜の島が海に沈み、竜王が行方不明になってから竜族は群れで生活することをやめてしまったのだという。もともと個人主義的なところが多かったが、いまでは他の仲間がどこにいてなにをしているかもしらない。
 そんな状況だし、一族の恥さらしとされていた死神はもういない。
 協力する義理はもはやなにもない。
 勝手にやってくれ、とだけいってその竜は空の彼方へ飛びさってしまった。