ノイズ・上


 私は高校1年生になり、和也が大学4年生の8月。
 中学2年生の夏休みに出会ったから、そろそろ知り合って2年めくらい。
 たまに怖い目にあう以外は特に変わったことはなく、わりと平和に過ごしている。
「隼人(はやと)って覚えてる? 西崎隼人」
 2人で水族館にきていたとき。
 すずしげにゆらゆらと泳ぐ魚たちをながめながら、和也がたずねた。
 正面には私たちの身長より何倍も大きな水槽。
 エメラルドグリーンとコバルトブルーの濃淡が美しい水に、色とりどりの魚たち。
 ずっと見つめていると、まるで自分が海の中にしずんでたゆたっているような気分になる。
 海藻みたいに波に身を任せて眠っていられたら、気持ち良いだろうな。
「行方不明になった、和也の友達だよね。霊感があったっていう」
「そうそう。中学のときの話なんだけどさ、そいつがずっとキョロキョロして挙動不審な日があったんだ」
「霊を見てたの?」
「俺もそう思ったから聞いてみたんだよ。なにか見えてんの? って」
 このお兄さんにも霊感がある。
 でも、霊感があればあやしいものすべて見えるというわけでもないらしい。
「ノイズ」
 西崎さんはそう答えたという。
「うちのクラスの連中にノイズがかかって見えるんだ。画像データが壊れてるみたいに、顔や身体がくずれてまともな形に見えなかったり、黒いもやがかかってたり。なんだろこれ……気持ち悪い」
 それは彼自身もそうらしく、虫をはらうような仕草をする。
 しかし原因はわからず、そのまま放課後をむかえた。
 同級生の1人が転校することになり、その日はちょうど最後の登校日。
 みんなでお別れ会をしようと、担任教師がお菓子やジュースをたくさん持ってきた。
 それらが配られるより先に、
「先生、それ腐ってる」
 西崎さんの言葉に教室中が騒然とした。
 あわてた教師と生徒たちが確認したところ、期限が4,5年前のものがいくつか。
 ほとんどはお昼休みに買ってきたものなのだが、職員室にいた他の先生に「冷蔵庫に余っているお菓子やジュースがあるから、それもあげてかまわない」といわれ、もらってきたものが混じっていた。
 おそらくそれが腐っていたのだろう。長年職員室の冷蔵庫にほったらかしになっていたものかもしれない。
 教師はそう頭を下げ、そのときノイズは消えたという。
「俺には普通のジュースに見えたけど、隼人にはジュースに黒いもやがかかってるように見えたんだってさ。ハエじゃなくて? って聞いたんだけど、”ノイズ”なんだと」
 和也が笑う。
 いや、笑いごとじゃないと思うよ。
「俺はそういうのは見えないからさ、”いーなーすげーなー”って軽く褒めたんだ」
 すると西崎さんは。
「じゃあ、俺が死んだらやるよ」
 と答えたそうな。

◆

 後日、夏休みの朝。
「ひなた。あんた大丈夫?」
 おきてリビングへ行ったら、母が私の頭をなでてきた。
 わけを聞くと、「私が死に装束の女の子に川底へ連れて行かれる夢」をみて不安になったという。
 彼女は親しい人が亡くなる前の予知夢をよくみるので、余計だろう。半泣きの母がかわいそうなので、しばらく大人しくなでられていた。
「なんの騒ぎ?」
 寝おきの姉が問う。
「怖い夢をみたんだって」
「ふーん」
 台所へきびすを返そうとした姉を母が抱きよせる。
「咲月(さつき)。あんたもしばらく水に気をつけなさいよ。特にあんたは1度おぼれてるんだから」
「あー、ハイハイ」
 母はお姉ちゃん大好きなのだが、彼女はまだちょっと反抗期なのですぐに逃げてしまう。
 手持ちぶさたのように母は私を抱きしめた。
 自分の身体はあまりやわらかいと思わないんだけど、他人の身体だととてもやわらかく感じる。
 女体のやわらかさとシャンプーの香りにひそかに癒やされていたのに。
 それに気がついて鳥肌が立った。
 私の影が、ない。
 光の角度によるものかと思ったけれど、指や関節の影までみえないなんて、おかしい。視線だけを走らせると、近くにある家具や母、姉、父にはちゃんと影がある。
 そんなバカな。
 自分の身体をしばらく凝視していたら、異様にうすい影を発見した。
 まったくないわけではないようだ。
 満足した母がはなれていく。
 彼女の話を平然と聞いていたのに、急に危機感が現実味をおびてきて、じわりと汗をかく。
 余計な心配をかけたくないので、気づかないふりをしてその場をやり過ごした。

◆

 自室にもどっても、影はもどらない。ないと思ってしまうほどうすいままだ。
 しばらく水に近づかなければ、いずれもどるのだろうか。
 なんて考えながら、ふと視線を上げると。
 それが目に入って息が止まる。
 夏は日差しと紫外線がきついので、日中でもカーテンを閉めている。
 そのカーテンのむこう側に、なにかが立っている。
 明らかに人の頭らしい影が映っているのだ。ここ2階なのに。
 数秒、硬直してしまったものの。
 私はそっと引き返して姉を連れてきた。母は大騒ぎするし、父はこういうのあまり信じてない。
「あそこにオバケがいる」
「はあ? どこよ。ベッド?」
 Tシャツショートパンツ姿でごろごろしていた姉はまだ眠そうだ。
 なんだかんだ文句をいいつつ、ちゃんとついてきて信じてくれるあたりが姉である。
「窓のむこう」
 彼女は「ふむ」とこちらを見下ろして、カーテンを開けた。
「うわっ」
 思わず声を上げ、一歩下がる。
 晴天で日差しのきつい、最高気温38度の朝だっていうのに。
 窓の外には女の子の霊がハッキリとみえていた。
 顔立ち自体はキレイ。少し目つきが鋭くて、14~15歳くらい。ほんの少しだけ、斉藤さんと顔立ちが似ていると思った。
 でも表情が明らかにおかしくて、気の触れたようにケタケタ笑っている。
 飾りっけのない簡素な白い着物姿、と考えて「ああ、これが死に装束だ」と気づく。お葬式で遺体が着るやつだ。
 おかっぱの前髪に長いストレートの黒髪は水でびっしょりぬれている。彼女は両手を私の部屋の窓にぺたりとついて、こちらをまっすぐ見つめていた。
「窓がぬれて……げっ、なにこれ。人の手の形にぬれてんじゃん!」
 姉は少女がみえていない様子で、彼女が両手をついている辺りの窓に顔を近づける。
 ぬれている、というより。湯気でくもった水蒸気のような形で手形がついている。
「近づくと危ないよ」
 姉のTシャツをぐいぐい引っぱって止めるが、
「ここ?」
 彼女は止まらず、窓を開ける。
 以前怖い思いしたくせに、まったくこりていないらしい。助けを呼ぶ人選を間違ったかもしれない。
 死に装束の少女は紙かなにかのように、するりとすべって室内に入ってきた。
 姉には目もくれず、私の方へ近づいてくる。
 とりあえず姉には危害がおよばないようで安心したような、姉にむかってお馬鹿とさけびたいような。
 複雑な心境で私は姉の手を引いて1階まで逃げた。
 とりあえず両親のいるリビングへもどると、
「あんたたち、おやつ食べる?」
 母がのん気に声をかけてくる。
 私は迷って、うなずいた。
 両親のそばにいれば安心だろう。
「ちょっと、オバケどうなったわけ」
 姉が問う。
「お姉ちゃんが窓開けるから入ってきた」
「じゃ閉めてくる」
「いいよ、もう」
 母と姉の間で梨を食べていたら、父が台所とこっちを見比べて不思議そうな顔をした。
「ひなた、いま台所にいなかった?」
 つられて台所をみると、さっきの死に装束の女の子がそこに立っていた。
 彼女はケタケタケタケタ笑って、床をすべるようにこちらへ近づいてくる。
「……ッ」
 家族はみんなふつうにしている。
 やっぱり、私にしかみえてないみたい。
 やがて、少女は私の正面にやってきた。
 床に三角ずわりするようにて、こちらの顔をのぞきこんでくる。
 アハハキャハハウフフフフキャハハ。
 笑い声だけが大きくひびいて、家族がなにを話しているのかもわからなくなる。
 意識がほぼなくなりかけていたとき。
「なに、思い出し笑い?」
 不審そうなまなざしで姉が聞いた。
「えっ?」
 父と母も少しおどろいた顔でこちらをみている。
「笑ってた?」
「あんたがそんな大声で笑うの、数年ぶりに聞いたわ」
 姉の言葉に背筋が冷えた。
 ずっと少女の霊が目の前で笑っているとばかり思っていたのに、いつのまにか私までつられて笑っていたらしい。
 ヤバイ。なんかこの霊ヤバイ。
 いままで霊感がないと思ってた私が、こんな昼間からハッキリみえるくらいだし。
「あ、遊びに、行ってくる」
 私は食器を片づけて荷物をとりに行き、早足で家をでた。
 助けてド●えもん。
 もとい和也。
 駅で電車にのり、SNSでメッセージを送る。
 今日バイト行ってないといいけど。
 なんて祈っていたら、送信エラーと表示された。もう1度送ろうとすると、なにもしていないのにスマホの電源が切れた。
 電池まだあったはずなのに。
 再起動して再びメッセージを送ると、またエラー。
 嫌な汗がじわりと背中を伝った。
 猛暑の熱気のせいか、めまいがする。
 ……こうなったら、連絡なしで行くしかない。
 電車を降りて、しばらく歩いて。
 気がつけば私は見知らぬ川辺にいた。
 早く行かなきゃ、呼んでる。
 ちゃぷん、と足が水にしずむ。
 ひどく暑かったから、水の冷たさが気持ち良い。
 もっと川の深いところ。水底へもぐったら、きっともっと涼しい。そこでずっと、海藻のように水の流れに身をゆだねて眠るのだ。
「はい、そこまで」
 肩をつかまれてふり返ると、和也がいた。
「……」
 なんで止めるの? 邪魔しないで。
 にっこりほほえむ彼と目が合って、急に違和感が芽生える。
 ……あれ?
 そういえば和也のマンションにむかっていたはずなのに、なんでこんな所にいるんだろ?
 なにかいわなきゃいけないことがあったような……。
 頭も身体もだるくて、上手く思考が働かない。
「ちょっと失礼」
 和也は私のバッグを開けると、なにかをとりだして川へ軽く放り投げた。
 斉藤さんにもらって持ち歩いていたお守りだ。
 お守りは川に落ちる寸前で白い手につかまれた。
 あの死に装束の少女だ。彼女は水から顔半分だけ出した状態で、じいっと和也を見つめる。
「……」
 そこにはなんの表情も浮かんでいない。
 怒っているのか、喜んでいるのか。どちらともわからない。
 やがて、すー……っと少女は川の中にしずんでいった。
「帰ろっか、ひな」
 和也は何事もなかったかのように私の肩をつかみ、軽く押す。
 まだ少しくらくらする。熱中症なのか霊障なのか、判別に苦しむところだ。
「あれ、なんだった」
 の、とたずねようとして、橋の上を見上げる。
 なんだか、いま……。
「ひな?」
「いま斉藤さんがいたような気がしたけど、見間違いだったみたい」
「……し」
「し?」
「足ぬれちゃったし、さっさと帰ろう」
 それ以来、あの死に装束の女の子はあらわれなくなった。
 代わりに、その夜。
 中学生くらいの女の子と大学生くらいの女の人が申し訳なさそうに謝ってくる夢をみた。
 なんだか斉藤さんが関係している気がするんだけど。
 頭がフラフラして和也に聞く余裕がなく。斉藤さんとも連絡がつかないので、謎ばかりが深まった。