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●「約束の」2
週末。
雨が降ってしまえばいいのにと思っていたけれど、青い空には白い入道雲が浮かんでいる。セミの鳴き声がひびく35度の猛暑の中。私たちは某人気屋内プールへやってきた。
……屋内だったら天気は関係なかったな。
「……」
鼻歌を口ずさんでいる和也をなんともいえない気持ちでながめる。視線に気づいて彼が艶やかな口元をつり上げた。軽く身をよせ、キスしそうな距離でささやく。
「なに? ハダカ見たことあるのになんでそこまで、って?」
公共の場でそういうこというな!
あわてて周囲を確認するが、一応聞かれてはいないようだ。通行人たちはみんなそれぞれの会話に夢中で、入り口へむかって歩いている。
こちらの心情もしらずに和也は得意気に力説する。
「良いものは何度見ても良い。ここが撮影禁止じゃなければ写真とりまくって水着アルバム作りたいくらいだ」
一見ほれぼれするような美形なのに、なんでそんなエッチなの? 変態なの?
「あのさ……しってると思うけど、私そんな自慢できるようなスタイルじゃないからね?」
おそるおそるいうと、彼は長い指先で軽く口元を押さえた。
「ひなはかわいいよ」
肉食獣みたいな目つきにドキッとする。とろけそうなのに食い入るように見つめてくるから、睨んでいるようにも見えて少し怖い。
「肌がすげースベスベして触り心地いいし髪もキレイだしいい匂いするしくびれがすばらしいし腰から足首までのラインは神がかってるし胸ひかえめなのも似合ってて好きだし声最高だし顔も」
「もういい。もういいから」
和也には幻覚が見えている。
さっさと進もうと背中を押すと、彼はくすくす笑った。
それからプールの入場口を通って一度彼と別れ、女子更衣室へ入ったあと。
プール特有の塩素の匂いがうっすらとただよう中。私はため息をつきながらコインロッカーへ手をかけた。
が、それはすでに使用中でカギが刺さっていない。
よく見ると近くにあるものはすべてそうだった。歩くスペースでさえ着替え中の人でいっぱいだから、無理もない。
とはいえ、こんなに広い更衣室だ。探せば一つくらい空いているだろう。
そう思ったけどダメだった。
3、4回空いているロッカーを見つけたものの、どれもモタモタしている内に他の人にとられてしまった。
困った。まだ午前中だし、これから人は増える一方だろう。
「……」
とりあえず着替えて、荷物をもって外へ出て。和也のロッカーにいっしょに入れておいてもらうというのはどうだろう。うん、いける気がする。
服をぬごうとしたとき、視界のすみに赤が映った。
リストバンド式の赤いカギが刺さっている。あのコインロッカーは使われていないらしい。
近づいて扉を開ける。今度はだれかにとられる前に荷物を入れることができた。
同時に、頭上のライトがカチカチカチ……と細かく点滅する。
まだ外は明るいけれど、窓のないこの部屋は電気なしでは暗い。
ぎょっとして見つめている内に、ライトは元にもどった。
周囲の客も少し不思議そうに目をやったものの、すぐに着がえを再開する。
「なにあれ? 幽霊が通ったみたいな点滅……」
「やめてよ!」
そんな会話が聞こえてきて、ヒヤリとする。
真に受けるわけじゃないけれど、あんまりタイミングがよかったから。ここを使うかどうか少し迷う。
まさか、なにかあるんじゃ……。そういえば、今日はお守り忘れてきた。別に私は霊媒体質じゃないけど、和也が霊媒体質だから、彼のそばにいるならお守りをもっていた方がいいと斉藤さんにいわれているのに。
でも、他に空いているロッカーはない。周囲にはたくさん人もいる。外には霊媒体質だけど自力ではらえる和也もいる。
大丈夫だろう、と判断してそこを使った。
◆
着がえてプールサイドへ出ると、すぐに和也がよってくる。
「うん、似合う似合う。かわいいよ」
「あ、ありがとう」
キラッキラした笑顔をむけられて、ついパーカーの前を閉める。
こういう、「さあ褒めろ!」といわんばかりの状況って苦手だ。服屋で試着しても店員さんに見せずにさっさと脱ぐ私にはハードルが高すぎる。
「なんで閉めんの?」
和也が問う。
「なんか目が怖い。あと近い。近い」
こちらが水着ならむこうも当然水着なわけで。
半裸の状態で近づかれると目のやり場に困る。私よりは大きいけど男の人としては少し細身な方で、そこがいい。細身の人好きかも、などと考えてしまった自分がはずかしい。
不意に彼が面白がるように告げた。
「でも、パーカーの前は開けておいた方がいいと思うけど。水着ぜんぶかくれて彼シャツみたいになってるじゃん」
私は即座にパーカーを脱いだ。
とっとと水に入ってしまえ。
プールへむかおうとすると、ぽんと肩をたたかれる。
「荷物貸して、もつから」
「いいよ、これくらい」
泳ぐので必要最低限の荷物しかもってきていない。少ないし軽いし、もってもらう必要はないと思う。
「じゃあ、コインロッカーのカギだけ」
切れ長の大きな瞳が悪戯っぽくこちらを見下ろし、手のひらをさし出す。
「失くしたりしないよ」
リストバンド式だから腕につけておくだけだし。
和也はにっこり微笑んだ。
「うん、しってる。でも危ないから」
「……」
そんなに危なっかしく見えるのだとしたら心外だ。
が、説得するのが面倒なので大人しくカギをわたす。
それからは屋内に何種類かあるプールを順番にめぐって泳いでいた。
やがて、正午を過ぎたころ。
私は”プールだこ”に夢中になっていた。
プールサイドの屋台で売っている、だし漬けのたこ焼きである。うどんのつゆより濃く、温かいだしに漬かったたこ焼きは程よい塩気があって美味しい。
黙々とかつお節を食んでいたら、だれかに話しかけられたような気がして、手を止めた。
和也はむかいの席にいて、このテーブルには二人しかいない。
「いま、なにかいった?」
問うと、彼はじーっとこちらを見つめたまま口を開いた。
しっとりとぬれた黒髪がつややかでやけに色っぽい。
「……あのさ、こんど俺の部屋でそれ着てみる気ない?」
「イヤ」
「すぐ脱いでいいから。むしろ俺が脱がすから」
「ぜったいイヤ」
午後までいっぱい遊んでくたくたになり、帰る前にコインロッカーのカギを返してもらう。
カギを渡すついでに私の両手をなでながら、和也は軽く目をふせた。
「俺が女子更衣室まで入れたらいいんだけど」
「間違いなく捕まるよ」
いくらイケメンでもさすがに許されない。
さっさと別れて女子更衣室へ入り、シャワーを浴びてロッカーの前できがえ始める。
プールサイドはあいかわらず人混みでごった返しているけれど、更衣室の中はだいぶ空いていた。人気はまばらで、プールの喧騒とBGMのJPOPだけがうっすら聞こえてくる。
泳ぐ前にここで少しゾクリとしたことを、完全に忘れていた。
タオルをとりだそうとして扉を開けて、それを思い出す。
青くて四角いロッカーの中には私の荷物が入っている。
そのはずなのに、そこには黒くて長い髪の毛がみっしりつまっていた。
「……ッ」
とっさに後ずさろうとして全身が引きつる。
激しい筋肉痛みたいにあちこちが引きつって痛くて、指一本すら動かせない。息が苦しくて、全身が心臓みたいに脈打っていた。
髪の毛はもう消えている。
うす暗いロッカー内には荷物だけが入っていた。
なのにまだ身体が動かない。
少しはなれた場所を人が通り過ぎて行くのに、助けを呼ぶための声すら出せない。
こむら返りになったときみたいに息を荒らげていたら、頭上の電気がまた点滅した。
パチパチパチ……ブツッ。
この一角の電気だけが完全に消え、暗闇につつまれる。
一気に体中が冷えて寒気がする。
電気がついているときはまったく怖くなかったのに、暗くなっただけでこんなに怖くなるとは思わなかった。自分の部屋で電気を消すのとはわけがちがう。霊安室の中に閉じこめられたみたいな嫌な静けさと、じっとりとまとわりつくような不気味さがただよっていた。
まっ暗でなにもみえないのも嫌だけれど、こんな風にうっすらと物が見える程度に暗いのもおそろしい。ロッカーの物陰にまた髪がみえたらどうしよう。そろりと視線だけを動かして、ギクリと肩がこわばる。
だれかいる。
顔が動かないのでよく見えないけれど、視界のすみ。ほんの10歩先くらいの影の中にだれかが立っている。
ずぶぬれの水着姿だ。
黒いパレオが土気色の肌にまとわりつき、ボトボトと水をたらしている。
彼女はだらんと両手をたらしたままこちらをむいていて、その手に長い髪がかかっている。ゆるくウエーブのかかった毛先からじょじょに見上げていくと、青白い唇が見えた気がして、あわてて視線を下にもどした。顔を見る勇気はない。
この人、生きてない。
やっぱり、ここなにかあるんだ。
気づいてもどうしようもなく。
他の客たちは暗い場所でたたずむ私にいぶかしげな視線をチラリと送り、プールや出口へさっていく。
動かない身体と格闘しながら彼女のお腹辺りを見つめていたら、それは一歩ずつ、こちらへ近づいてきた。
こないで、とさけぶけれど声は出ない。
ぼとぼと、ぼたぼたと大量の水がマットに流れていく。震えが走るような冷たい手のひらが私にふれた。氷みたいに冷たくて、ぬれている。
彼女は私の腕をつかんで引きよせると、息がかかりそうなほど顔をよせた。
「返して」
血の気が失せた唇。違和感を覚える土気色の肌。その両目は険しく見開かれているのに、髪と同じように真っ黒で。ぽっかりと穴が空いているみたいだった。
「いやっ!」
反射的にその腕を振り払う。
マットにしりもちをついて倒れてしまったけれど、まるで気にならない。
泣きそうになりながら見上げた室内には、もう女はいなかった。
「……」
そのまま呆然とすわりこんでいたら、ブウンという音がして電気がつく。
明るくなった室内はすっかり何事もなかったかのようで。
塩素の匂いだけがツンと鼻孔に届いた。
◆
着がえて更衣室を出ると、和也が心配そうな顔でまっていた。
「やっぱり、なんか怖いことあった?」
「……しってたんだ」
どおりでたまに言動があやしいと思った。
うらめしげに見つめると、よしよしと頭をなでられる。
「うん、あいつずっとついてきてたし。でももう大丈夫だから」
え、ずっと?
さらっと嫌なことを聞いてしまったが、遊んでいる最中に気づかなくてよかったのかもしれない。
私は歩きながらさっきの出来事を話し、左腕をさし出した。
「着がえてるときに気づいたんだけど……」
そこにはくっきりと、赤い手形のあざができている。
女につかまれたところだ。内出血したんだろう。
「へえ……」
和也は少し考えるようにそうつぶやきながら、私の左腕をさらりとなでる。
本当に軽くひとなでしただけだったのに、手形のアザがウソみたいに消えた。
「よし、消えた」
「え!?」
目を疑う。自分でも何度かこすったりしたけど、全然消えなかったのに。
「ウソ。いま、なにしたの?」
「消しただけですが、なにか?」
和也はにんまり笑う。
「まだ怖かったらおいで」
彼が両腕を広げるが、遠慮しておく。
私は自分の腕をおそるおそるさわりながらたずねた。
「あの幽霊って、なんだったの?」
長いまつ毛に縁どられたおだやかな瞳がこちらを見下ろす。
「いま話すとついてきちゃうけど、それでも聞きたい?」
「やっぱりいい」
アレはもう勘弁して欲しい。
「あのコインロッカーを使わなければもう大丈夫だよ」
そんな言葉にホッとして、つい愚痴がもれた。
「……斉藤さんのお守り、ちゃんともってくればよかった」
ピタリと和也が足を止める。
彼は笑みをひそめ、真顔でこちらを見つめた。
「しばらくあいつの話禁止」
「……」
この前の怪談大会のことを、いまだに根にもっているらしかった。