12
●母は気づいている
ある夜。
家の廊下を歩いていたら、母がニヤニヤしながら話しかけてきた。
「ねえねえ、もう高橋さんに好きとかいわれた?」
ぎし、と身体が硬直する。
そういえばさっき、電話で伯母さんとなにか盛り上がっていたようだった。
従姉妹の彼氏がどーとかこーとか……その影響だろう。
「隠さなくてもいいよ? お母さん高橋さんなら反対しないから」
どうなのどうなの、と彼女の瞳は輝いている。
「あんたも好きなんでしょ? 根暗で無口なあんたが高橋さんの前じゃやけにペラペラ話すもんね。普段よりは、だけど」
明るいセミロングの巻き髪に細身。平均よりやや高い身長。だまっていればおしとやかに見える母だが、実態はごらんのとおりである。
「……高橋さんは、いいお友達だよ」
迷った末にそう答えると、母はあからさまにガッカリした。
かまわず横を通り過ぎると、彼女が笑う。
「いつかお金持ちのイケメンを捕まえたら、ちゃんとお母さんに紹介してね」
娘に夢を見過ぎである。
一階に降りると、姉が父に説教されていた。
娘がいうのもなんだが、父はちょっと影のある感じの美形である。
中肉中背の黒髪。
童顔気味で若く見えるが、しかめっ面だとけっこう怖い。
「咲月(さつき)。お父さん茶髪は許すけどダメージジーンズとヒョウ柄は許せない。あとタバコも」
「……タバコは誘われたけど断ったよ」
気まずそうにしながらも、姉は大人しく正座している。
彼女はお父さん大好きなので、父には逆らえないのだ。その父は私に弱く、私は母に弱い。そして母は父と姉に弱い。姉と私はわりと対等。我が家のヒエラルキーはそんな感じだ。
姉は口が硬いけれど、母はなんでも父に話してしまうから、和也のことをいえないでいたりする。
姉のお説教が終わったあと、私は父にたずねてみた。
「私が年上の彼氏つれてきたら、どうする?」
彼はジュースを飲もうとした格好のまま、数秒無言でこちらを見つめ返した。
「年上って、いくつ」
「6つ」
「5発は殴る」
「私を!?」
「そんなわけないだろ! 高校生に手を出すロリコン野郎をだよ!」
だん、と音を立ててコップをテーブルに置く。ジュースこぼれたよお父さん。
「でも、お父さんとお母さんは10歳ちがうよね」
母が20歳、父は30歳の時にお見合いで知り合って結婚した。今でも弟か妹ができそうなくらいラブラブである。
「……」
「……」
「……」
父はそっと目をそらした。
「お父さん?」
近づいていって問うと、彼は小さな声で答える。
「大人になったら、歳の差は関係ないから……」
和也を紹介するのは、数年後じゃないと無理そうだ。
●月下美人の花
母から聞いた、両親が結婚する前の話。
夜の植物園でデートしていたら、月下美人が展示されていたので観に行った。
月下美人とはその名のとおり、月が出ている時間に咲く美しい花。たった一晩しか咲かない、貴重なものだという。
すでに花開いたものから、つぼみがふくらみ始めたばかりのものまで。
いろいろあったけれど、どれも美しい。
白いトゲトゲした花弁の中に、牡丹みたいにふんわりした花。奥をのぞきこむと雌しべにまぎれて太陽の形をした雄しべ。
香水みたいな甘い匂いがするそれを、二人は静かにながめていた。
そんなとき。
「女」
すぐそばで若い女の声がした。
けれど、周囲には父しかいない。他の客はそれぞれの連れと固まって、話をしていた。
他の客の声が風にまぎれて届いたのだろう。
そう思って、母は近くのつぼみに目を移した。時間をかけてじわじわとふくらんでいるそれは、もうじき開花する。
楽しみにながめていたら、
「女」
月下美人が咲くと同時にまた別の女の声がした。
つぼみの中から聞こえた気がして、冷や汗をかく。じっとこちらを見つめる花と、目が合ったような感覚がしたのだ。
「いまの……聞こえた?」
「え? なにかいった?」
父はまるで気づかなかったらしい。
植物に夢中になっている無邪気な顔を見て、母はなんとなく。
「私はこの人と結婚して女の子を二人生むかもしれない」
と思ったのだそうだ。
●祖父と私
父方の祖父は私が小さいころに亡くなった。
だから、彼との思い出は片手で数えるほどしかない。
うだるように暑い夏の午後。
大きな大きな庭のそこかしこからセミの鳴き声がひびいていた。
カラカラと回る車イスにのり、祖父は池をながめている。その周りに、チョロチョロとうごめく生き物がたくさんいたのである。
なんの生き物かは思い出せない。
色も大きさもすっかり忘れてしまったが、祖父になついているそれを見て、私は「かわいい」とつぶやいた。
かけよって抱き上げようと手をのばすが、するりと逃げられてしまう。
そんな私を見て、祖父はこういった。
「捕まえられたら一匹あげるよ」
私は喜び、一日ずっとその生き物を追いかけまわす。
でも、けっきょく一度も捕まえられなかった。
それをふと思い出し、気になって母に問う。
「お父さんの方のおじいちゃんって、なにか飼ってたっけ?」
「鯉でしょ。まだおばあちゃんちにいるよ」
確かにそれもいたような気がするが。
あのとき、池の中に入ったりはしなかった。いくら小さくても魚をだっこしようとは思わない。
「そうじゃなくて……庭を走ったり、床下にもぐったり屋根にのぼったりするようなの」
「なにそれ? 哺乳類は飼ってないよ」
「……」
おかしい。確かになにかがいたはずだ。
犬、ネコ、鳥、ネズミ……どれもちがう。じゃあ虫? 小さいころは虫も平気だったけど、小さすぎる。
思い出そうとしていたら、妙な記憶が脳裏をよぎった。
あと少しで手がとどく。
そう思ったらそれが急にふり返って、ずっとかくれていた顔が見えて……。
ゾワッと一気に鳥肌が立つ。
「どうしたの?」
母が問う。
「……なんでもない」
なにかを思い出しそうだったけれど、すっかり忘れてしまった。
●祖父の遺産
父の家系はわりとお金持ちだったらしい。
だから、祖父が亡くなったときは遺産相続問題が発生した。
しかし、両親は話し合って相続を放棄した。
父は五人兄弟の末っ子で祖父にも祖母にもかわいがられていた。しかし、祖父の介護をしていたのは伯父さん夫婦だし、親戚づきあいもほとんどない。うちは中流家庭だけど、お金に困っているわけじゃない。
だからいい、と。
「お金のことで争うなんて醜いからね」
母はそういって笑った。
彼女のこういう所は素直に尊敬している……のだが、母は笑顔をひっこめて周囲をキョロキョロした。青ざめた表情で顔をよせる。
「あのときね……お母さん、生霊を見たのよ!」
祖父の葬式が終わり、遺産相続についてはまた日を改めて話しましょう。
そういうことになって一度帰宅した後のこと。
久しぶりに自分の寝室のドアを開けると、タンスの上に伯母さんがうずくまっていた。
天井とタンスの間、一メートル未満の所に身体を縮めてじっとこちらを見ている。それはすぐ消えたが、ただの見間違いとは思えない気持ち悪さがしばらく残っていた。
他にも、階段の曲がり角に黒い人影がぼうっと立っていたり。窓を開けようとしたら、逆さまにはりついた伯母さんの生霊と目が合ったり。
そんな怪奇現象におびえていたことも、相続放棄の理由の一つらしい。
「お義兄さんのところが一番お義父さんの面倒見てたから……かわいがられてるだけのうちのお父さんに遺産もってかれちゃたまらないと思ったんでしょうね」
伯母さん夫婦はかなり遠方に住んでいるのに、聞かれるのを恐れるように母は周囲をうかがっている。
「でも、相続放棄して良かったと思う。相続の話しに会いに行ったとき、伯母さんの目が尋常じゃなかったから」
遺産もらってたら、きっと一生うらまれてた。
母は小声でそう告げた。
●夏休み
高校が夏休みに入って早々。
私は和也のマンションに三日間泊まりこみにきていた。
なぜか別れたがっていると誤解されているようなので、早い内に誤解をとかないとヤバイと感じたからだ。
午前中に私の生活用品や食材を買いに行き、午後からは彼に料理を教わっている。
ピーラーで大根の皮をむきながら、いつ切り出そうか悶々としていた。
「和也」
「なに?」
包丁でスルスル大根の皮をむきながら、彼がほほえむ。
機嫌は良さそうだ。
「別れた……」
「ひな手元みて。指切りそう」
私は一度野菜とピーラーを置いてから彼にむき直った。
「あの、わか……」
「え?」
包丁を構えたまま、彼がこちらを見下ろす。
銀色に光る刃はいかにも切れ味が良さそうで、なぜか腰が引けた。
「包丁しまって」
絵面的に怖いから。
おたがい手を洗い、話しやすい格好にしてから彼をソファにすわらせる。
「なにか、勘違いしてると思うんだけど……」
隣に腰かけると、するりと彼の手が私の後頭部へのびた。もう片方の手がほおをなで、あっという間にキスされる。
腕や唇、密着した身体がやけに熱くて心臓がはねる。
話の途中でなにをするのかと彼の胸を手で押すと、両手で顔をがっちりホールドされた。酸欠になりかけていたら、熱い舌に唇をなめられる。そのまま口の中へ入ってこようするけれど、私は頑として口を開けなかった。
いいかげんにしないと噛むぞ!
「ひなた。口開けて?」
少しかすれた低い声が耳をくすぐる。
獲物をいたぶるネコみたい。恍惚とした瞳が至近距離でこちらを見下ろす。やわらかそうな髪からは良い匂いがして、一瞬クラリとした。
思わずいうことを聞いてしまいそうになる。
顔を動かせないので軽く瞳をふせて視線をそらすと、彼は片手をはなした。
諦めたかと肩の力を抜いたら、
「ひゃっ」
スカートの下に潜りこんできた手のひらがゆっくりと太ももの内側をなぞり上げてきて、声がもれてしまった。ぞくぞくと無意識に腰が震える。
その隙にソファに押し倒され、やんわりとのしかかられる。
「や」
文句をいおうと口を開いたら、舌が入ってきた。
「……ッ」
それから。
20分くらいディープキスしてから、和也はようやく私を解放した。
「ぜったい別れないから」
息が上がってぐったりした私を見下ろし、くすりと笑う。
意地悪で楽しげな微笑は嫌味なくらい様になっていた。
「……だから、別れようとなんて、思ってないって」
なんとか誤解を解いたものの、残り二日間は彼の三メートル以内に近づかなかった。