14


●鬼がくる・2

 雨の勢いは弱まることなく、今日もざあざあと降り続けている。
 昼間でも明かりをつけないとまっ暗になってしまうくらいだ。
 そのせいか最近、やけに眠い。
 毎日ちゃんと眠っているのに、寝た気がしない。昨日なんか、夕方まで眠っていたのに夜にまたぐっすり寝てしまった。今日もふとした瞬間に居眠りしてしまうので、冷水で手を洗ってなんとか目を覚ましている。
 ひんやりと冷たい水が手の甲をぬらしていく最中、頭上からボリボリという音がひびく。
 つられて洗面所の鏡を見ると、そこには顔の上半分がない自分の姿が映っていた。
 デロリとはみ出た脳みそには鬼たちが齧りついていて、赤い血がだらだらと首へたれてくる。
「……っ」
 反射的に後ずさったら、後ろを通りがかった姉をおどろかせてしまった。
「なんか顔色悪いけど大丈夫?」
 その顔にゾンビと遭遇した恐怖はなく、こちらも安心する。
「寝ても寝ても、眠くて」
 寝過ぎたせいか、少し頭痛もする。
 大した痛みではないけれど、ズキンズキンと続く痛みは脳みそを噛まれているみたいな錯覚をいだいてしまう。
「ふーん。風邪かな。薬飲みなよ」
 姉は私のおでこに手をやり、小首をかしげてさっていく。
 そっともう一度鏡をのぞくと、そこにはいつもどおりの自分の顔が映っていた。少しノイローゼになっているのかもしれない。

◆

 体調が悪いなら家で寝ているべきなんだろうけど熱はないし、……眠るのが怖い。
 そのうち、夢から出てこられなくなってしまうんじゃないか?
 いつまでも覚めないあの陰鬱な世界で、頭を食べられ続けるんじゃないか?
 そもそも、いまは本当に現実なのだろうか。
 そんなバカな不安がつきまとう。
 それでも家にいると睡魔に負けてしまうので、軽く外を散歩することにした。
 ザアアアアアアアアアアアアア、と雨粒が地面をたたいている。
 空は夕方みたいにうす暗い灰色。周囲には人気がなく、どこか落ちつかなくなる不気味な雰囲気がただよっている。カサをさして歩き出すと、湿気をふくんだ生ぬるい風がほおをなでた。
 しっとりとした雨の匂いがする。
 眠気と闘いながらふらふらと足を動かしていたら、目の前に人影が見えて肩がはねた。雨で足音が聞こえなかったのか、ぼうっとしていて気づかなかったのか。いきなり気配なく現れたそれをあわててよけようとして、つまずいた。
 ぐらっと身体がかたむいてカサを落とし、冷や汗がでる。
 ここで転んだらビショビショになる。
 そんなことを考えていたら、後ろからだれかに抱きよせられた。
 びっくりしてつい悲鳴を上げそうになる。
 けれど、それよりも大きな音が周囲にひびきわたった。すぐそばのマンションから重い鉢植えが落下してきたのだ。
 中身の土と観葉植物がぐしゃりと潰れ、広がった。
 茶色くて鋭く、硬い破片が顔や腕、足のすぐそばをかすめていって心底ゾッとする。
 あのまま転んでいたら、潰れていたのは私の頭だったかもしれない。
 すっかり呼吸が止まっていたらしく、いまさら心臓がどくどくと脈打っていた。
 呆然と頭上をあおぐと、マンションのベランダはどこも無人で、風であおられた洗濯物がバタバタはためいている。
 あの洗濯物が鉢植えに当たって落ちてきたんだろう。
 そう考えると足が震えた。
 力がぬけてすわりこんでしまいそうになったけれど、しっかりと抱きしめられていてビクともしない。
「だ」
 だれ、と聞くより先に脱力しそうになる言葉が耳をくすぐる。
「ひなの匂いだ」
「和也?」
 振り返ろうとするけれど、身動きできない。
「ひなかわいーすげーかわいーやわらかーい」
 まさか、酔ってる?
 アルコールの匂いはしないけれど、そう疑いたくなるテンションだ。
 とにかく、このままじゃ人目につく。通行人はいないけれど、さっきの物音に気づいて、なにごとかと窓から顔を出す人がいた。
 そこまで考えて、またヒヤリとする。
 通行人がいないって……さっきの人影は?
 周囲ではザアアアアアアアアと激しい雨が降り続き、わずかに霧もでている。たまに車が通る以外に、近くにはだれもいなかった。
「……」
 男か女かもわからなかったけど、確かに和也とは別の人影を見たと思ったのに。
 つい思考にのめりこみそうになって我に返った。
「は、はなして。とにかく一度はなして」
 渾身の力をこめて彼の手を引きはがそうと奮闘していたら、ふっと腕から解放された。ふり返ると、久しぶりに見る和也の姿がぐらりとゆれる。
「大丈夫!?」
 つぶれそうになりながらその肩をささえると、覇気のない返事。
「……眠い」
 歩道のまん中で倒れそうになる彼をなんとかおこし、近くに停めてあった彼の車の後部座席にすわらせた。
 シートを倒して平らにしようとしたが、
「もーこのままでいい」
 力つきたように彼が背もたれに倒れ、目を閉じる。
「久しぶりに会ったと思ったら、なんでそんなにフラフラしてるの?」
「……」
 和也はすでに熟睡している。
 ちょっと、と声をかけようとして絶句する。
 ほんの数日見ない間に、彼はひどく憔悴していた。いつもサラッサラな髪は寝癖で乱れているし、顔は青ざめて色濃くクマが浮かんでいる。よく見ると、服もいつもよりだいぶラフ。
 美形が台なしだ。
 なにがなんだかサッパリだけど、寝かせてあげた方がよさそう。
 彼がおきるまでまだ時間がかかりそうだったから、とりあえず歩道に落としたままの自分のカサを回収してきた。
 鉢植えの破片で切れたんだろう。
 生地が大きく裂け、ベロンとめくれてしまっている。
 もう使えそうにないそれをながめていたら、無意識に背筋が震えた。
 ……危うく死ぬところだった。

◆

 また、鬼がくる。
 キイキイギイギイと鳴いて、カサカサとはい回り。ガリガリ、ボリボリと私の頭を食べてしまう。
 そして頭を食べつくされたとき、視界が紙で埋めつくされた。
 人型に裁断され、”保月ひなた”と書かれたたまっ白な紙が何枚も何枚も散らばっている。それらのいくつかはビリビリに破れてしまっていた。その中にまぎれて、ボロボロに破れたお守り袋の破片。
 それに一瞬自分の姿が重なり、バラバラになった私の死体のように見えた。
「きゃぁっ!?」
 車の中で目を覚ますと、外はもう夕方になっていた。
 和也がおきるのをまっている内に、自分も寝てしまったらしい。
「今の……」
 不穏にさわぐ心臓を落ちつけながら横をむく。
 彼はまだ眠っていた。
 すごく疲れているみたいだから寝かせてあげたいけれど、家に帰って寝た方がいい。
「和也、和也」
 おきて、と声をかけても身体をゆすってもスヤスヤ寝息を立てている。
 普段から寝おきが悪いけど、今日は一段とひどい。
 あきらめて、私はスマホをとった。
 まず家へ連絡してから、次は別の所にヘルプコールをかける。
「彼氏のために他の男をこき使うとは、意外と悪女だな」
 そんなこといいつつ、斉藤さんはすぐに来てくれた。
「急に呼び出してごめんなさい」
「冗談だ」
 仕事帰りだったから気にするな、といって彼は和也を一瞥した。
「守護霊どうした」
「やっぱいない?」
 和也が返事しておどろく。
 寝ていたんじゃなかったのか。ずっと返事しなかったのに。
 などと考えていたら、
「いまおきたんだよ」
 彼が流し目で笑ってドキッとした。
 斉藤さんは動じずに続ける。
「ネコもいない」
「食われたかも」
 なんの話かわからないけど、和也の口調はいつもどおり軽い。
 なのにどこか元気がなくて、不安になった。
「俺、いま霊がみえないから。あいつらがどうなったかわからない」

◆

 和也がまた気絶するように眠ってしまい、斉藤さんが代わりに和也の車を運転して送ってくれることになった。
「私もいっしょに行く」
「親が心配するだろ。おまえは帰れ。送ってやるから」
「友だちの家に泊まるって、いってあるから大丈夫」
 こんな気になる状態で私だけ帰れるものか。
 ……最近、外泊する機会が増えたから「そろそろ親に怒られるかも」とひそかに懸念していたのだが、まったく心配されてなくて拍子ぬけしたくらいだ。
 母いわく「お姉ちゃんだったら悪い友だちとつき合ってるんじゃないかって心配になるけど、ひなたは信用してるから」だとか。とても複雑だ。
「やった」
 目を閉じたまま、和也が小さくつぶやいた。
「……」
「……」
 斉藤さんが軽く片手をのばし、和也の頭をギリッと握った。
 スイカを握りつぶすような仕草に和也が短く悲鳴を上げる。
「や、やめてあげて」
 どうやらただの寝言みたいだし。
 斉藤さんが運転席にうつり、エンジンをかける。
 そのときようやく彼の格好に気がついた。
「斉藤さん、いつもスーツで働いてるの?」
 スーツ姿の斉藤さんなんて、ヤクザ以外の何者でもないじゃないか。あるいはチャイニーズマフィアか。
 似合うけど。手足の長さと姿勢の美しさに長身がよく映えて、色っぽくてカッコイイけど。
 凶悪な目つきや威圧感の前ではそれらが霞んでしまう。極道の女になる覚悟がなきゃ近づけない、みたいな。
「まさか。年に2回くらいだ。スーツ嫌いなんだよ」
 彼の運転する車にのるのは、なんか恐れ多い気がした。

◆

 和也は男性にしては細身だけど、けっこう重い。
 カーペットの床で寝てしまった彼をソファかベッドまで引きずろうとしたことがあるけれど、まったくビクともしなかった。
 その彼を、斉藤さんはたやすく部屋まで運びこんでくれた。さすがだ。
「おまえ、着替えとか大丈夫なのか?」
 途中で買ってもらったお弁当を二人で食べていたら、斉藤さんが聞いた。
「あ、うん」
 前に泊まったとき、和也が「買ってあげるから予備の服とかうちにおいときなよ。急に泊まることもあるかもしれないし」とかなんとかいったので。下着やら服やら化粧水やら一式あったりする。
「……」
 視線を泳がせる私を見て、斉藤さんは飼いならされた犬猫を見るような目をしたが、
「ならいい」
 そういって玄関へむかった。
「え? 帰るの?」
 てっきり和也となにか話していくのかと思っていた。
「どうせそいつおきないだろうから、明日の朝……九時にまたくる」
「ええと、空いてる部屋、あるけど」
 別に二人きりってわけじゃないし、斉藤さんならいっしょに泊まっていっても大丈夫だと思う。
 彼は無表情なのか真顔なのか区別のつかない表情でこちらを一瞥した。
「そういうこと、他の男にはいうなよ」
 そして、引き止める間もなく帰ってしまった。