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●鬼がくる・4
雨の気配はひんやりと肌寒く、少し生臭い。
朝なのに空はどんよりと暗かった。
二人に送ってもらって自宅に帰り、玄関で思わず足が止まる。
電気のついていない我が家は真夜中みたいに不気味で、しんと静まり返っていた。ざあざあという雨だれの音だけがひびいている。
「ただいま」
だれもいないのだろうか。
おそるおそるリビングへ進むと、ソファの物陰にチャロがひそんでいた。茶トラ模様でメタボなうちのネコ様である。
「チャロ」
いつも玄関まで出迎えに来てくれるのに、どうしたんだろう。
近よったとたん「シャーッ」と全身の毛を逆立てて威嚇してくる。
「チャロ?」
旅行やらなんやらで、一週間会わなかったときだってこんな反応をされたことはない。
手をのばそうとして、さっき聞いた話が脳裏をよぎる。
教授の犬は懐いていたのにいきなり脱走して死んでしまった。
今の私と関わっていると、チャロにもなにか悪影響があるかもしれない。
私はネコにかまうのをあきらめて、自室に引きこもることにした。
◆
やっぱり、家族はみんな出かけているようだ。
暗い室内に一人でいるとだんだん心細くなってくる。
和也と斉藤さんがいたときはまったく怖くなかったのに、たまに壁や屋根がきしむ音が妙に気になった。
二人は大丈夫だろうか。
そんなことを考えていたら、また頭が痛んだ。
惰性のように頭をさすると、ぬるりとした液体が手につく。
え?
おどろいて手のひらを見つめると、見間違えようもなく赤くそまっていた。
色鮮やかで、ケガをしたばかりのよう。
「……」
しばらく頭が真っ白になって、なにも考えられなかった。
今度は左手で頭をさわるが、やはり血がつく。
あわてて鏡を探し、洗面台へむかう。
鏡に映った自分に異常はない。なのに、つうと頭から血がたれてきた。少し口に入ってしまい、鉄の味が広がる。
気持ち悪くて、とっさに吐いてしまった。
どうしよう。
また夢を見てるの? 私死ぬの?
救急車を呼んだ方がいい? 和也に助けを求める?
オロオロと立ちつくしていたら、視界の隅でなにかが動いた。
電気のついた洗面所の外。
すぐそばの暗い廊下に、だれかがたたずんでいる。
とっさに視線をむけてしまい、すぐにそらした。
確かにいるのに、息遣いも衣ずれの音もしない。じっとこちらを見つめるその気配は、明らかに普通の人間じゃない。無意識に鳥肌が立ち、足が震えた。
まともに目を合わせたら死んでしまう。
なぜかそう感じたけれど、怖くて背中をむけられない。
視線を上へむけないように、必死に彼女の足元を見つめていた。
七歳くらいだろう。病的なほどに青白く細い少女の素足。白い着物姿だ。
一歩、また一歩と足を引きずるようにしてゆっくり近づいてくる。
逃げ場はない。
身体が強張って、動こうとすると激痛が走った。
「……」
少女がなにかしゃべったが、聞きとれない。
声が小さいわけじゃない。外国語でもない。うめき声なのか言葉なのか、ひどく滑舌が悪いのだ。
あああああ、とか。
あ”うう”あ”あ”ぅぅ、みたいな。
赤ん坊の鳴き声のような、すごく早口の日本語のような。
話しかけるように繰り返すそれは、あと少しで聞きとれそうなのに、やっぱりどうしても聞きとれない。たまに理解できる単語が混じるけれど、理解できないほうがいい気がした。
声の端々から憎悪と恨みが伝わってくるから。
私の正面に立った少女が、じいっとこちらを見つめているのが横目でわかる。見たくないのに無意識に目が追ってしまう。
さらりとゆれる黒髪が視界に入り、目が合う寸前。
だれかに呼ばれたように彼女が背後をゆっくりと振り返り、消えた。
「……」
もう、なにもいない。
そうは思ったとたん足の力が抜け、床にすわりこむ。そのまましばらく呆然としていたら、なにかが手にふれた。
「きゃあっ!?」
いつのまにか隣にこげ茶色の毛玉がいる。
チャロが私の手をなめたようだった。
さっきはおびえていたのに、いつもどおりのん気な顔をしている。
逃げるそぶりもないので頭をなでようとして、やめる。
改めて自分の両手を見ると、乾いた血がこびりついていた。
◆
頭痛は治ったし、血もこれ以上でない。
なんだか怖い気分もしなくなったのでお風呂でさっぱりしてくつろいでいた。シャンプーがしみるかも、と心配したけれど、杞憂だった。
やはり、どこかケガをしたわけではないらしい。あの血はどこから出てきたんだろう。
やがて家族も帰ってきて夕食をすませ、夜もふけたころ。
解決した、と和也から連絡があった。
和也と斉藤さんは渡辺さんの助言どおり社(やしろ)の跡地へ行ったらしい。
場所は小さな山の麓。
家といっしょにとり壊され、処分されたそこは広い空き地になっていて、土しかない。その敷地内に、雑草が一本も生えていない区画がある。
社が祀られていた場所だ。
そこを見てまず、斉藤さんが「順番を間違えた」といった。
先にちがう場所に行ってから、ここに来ないといけない。しかし、それがどこかまではわからない。
それを聞いて道をもどりながら、和也は気づいた。
案外、これはあっさり片づくかもしれない。自分たちは利用されているのだと。
「上のひとに頼め」という言葉は、以前ネコ神のときに使った方法の応用だった。
つまり、元凶のさらに格上へ頼みなさいということ。
社を建てるとき、神を招く。
大きな神社などで祀られている神の分霊をいただくのだとか。カンジョウがどうとか専門用語を聞いたけど忘れた。
とにかく、鬼の分霊をもらってきた大元の神社があるはずなのだ。
和也がそういうと、斉藤さんの頭に神社の名前が漢字で浮かんだらしい。古めかしい、書道っぽい字だったとか。斉藤さん、霊能者っていうかエスパーなんじゃないの?
その神社を調べて、足をむけてからはすべてが順調に進んだ。
彼らがやったことを大まかに聞いたところ。
大元の神社の神さまに挨拶して分霊を返す許可をもらう。そこでお迎えを連れて再び社の跡地へむかい、丁重に丁重に分霊を連れてまた大元の神社へ。分霊は元の神社へもどれてめでたしめでたし。
……要するに、社を壊されて怒った鬼神さまは神社へ帰りたくなった。
そこで、和也と斉藤さんを利用したというのが今回の顛末らしい。
だから、教授の話を断ってからはことごとく不運に襲われたのに、神社へ行ってからはツキまくりだったという。
何事もなかったかのように和也の霊感はもどるし、時刻表を調べるまでもなく電車とバスの待ち時間はすべて五分以内。タクシーを拾おうとしたら通りすがりのお祖父ちゃんが途中まで車にのせてくれるし、しかもそのときの信号はすべて青になってノンストップだし。死を覚悟していたのに拍子ぬけしたそうだ。……もっとも、分霊を連れているときに粗相があったら死んでいたらしいが。
それなら、なにも二人まきこまなくても。
どちらか一人だけで十分だったのでは、と聞くと答えは否。
斉藤さんはお寺に縁があり、和也は神社に縁がある。
神社の神さまに挨拶したり、分霊の送り迎えをするのは和也でなければダメだったそうだ。
しかし、神社までの道案内は斉藤さんが必要だったと。
「そういえば、渡辺さんがいってた”女の子”ってなんだったの?」
問うと、和也は電話ごしに声をひそめる。
『大昔……社を建てる時に教授の先祖が知的障害の女の子を生き埋めにして、生贄にしてる。神社に口止めされたけど、人骨の一部が埋められてたよ』
昼間に見た少女の霊を思い出し、鳥肌が立った。
獣のようなうめき声がまだ耳に焼きついている。気がつくと背後にいるんじゃないかと、つい後ろを振り返ってしまった。
あの子はもしかして……。
「と、とにかく無事でよかったよ」
『ホントだよ! 手間も金もかかるしすげーしんどかった!』
「あれ? 教授からお金もらわなかったんだ」
いつも”親しい人以外からは金をとる”といっているのに。
何気なくいって、返ってきた答えに凍りつく。
『教授は助けられなかったから』
「えっ」
『ケータイつながらないから家に連絡したら、行方不明だって。もう少しまって帰ってこなかったら警察に相談するっていってたけど……もう死んでるよ。どっかの公園のトイレが見えたから』
とっさのことで言葉が出てこない。
戸惑っていたら、彼がいう。
『分霊は神社へ返したから、これ以上関係のない犠牲は出ないよ。俺らは大丈夫。でも、教授の一家は保証できない。教授で最後とは思うけど……狂ったって人も治らないだろうな』
「どうして」
やっとそれだけいうと、和也は苦々しく、どこか諦めたように告げた。
『だから、神仏関係は怒らせちゃいけないんだ』
彼は少し縁があるだけで神職ではない。
神をなだめるのはその筋の方々に任せるしかないという。
「……渡辺さんは?」
『じーさんも自分とこの神さま以外は管轄外だよ』
「……」
『まあ、やっぱり今回のこともぜんぶお見通しだったみたいだけど』
解決したことを報告すると、渡辺さんはこういって笑ったそうだ。
「アマチュアがいっちょ前に金なんかとってるから、神様にタダ働きさせられたんだ。良い修行になっただろ?」
引き受ければ命はとられないって知ってたんだよ、と和也。
彼のお師匠さまは、さすがだ。
●後日談
鬼の件が片づいた翌日。
和也といっしょに斉藤さんに会いに行った。
斉藤さんの好きな店で和也が食事をおごるという話だったのだが。
「ひなたが喜びそうな店」
と斉藤さんが指定したので、和也は静かにキレていた。
「今回は世話になったからな……今回は」
女の子が好きそうな外観。私の好物メニューを押さえ、かつ今まで行ったことない新たなお店。それでいて男でも入れる落ちついた雰囲気。いつもながら見事なチョイスである。
「斉藤さんのそれは素なの? 和也への嫌がらせなの?」
こっそり聞くと、斉藤さんは不思議そうにこちらを見下ろした。
スッキリした一重の瞳は鋭い刃物みたいで怖い。
でも見慣れるとキレイだと思えてくるから不思議だ。
「なにが?」
質問の意図が伝わっていないもよう。
「その気もないのに思わせぶりというか……タラシというか」
説明するのがはずかしくなってきて、声が小さくなってしまう。これじゃ聞きとれないだろうなとわかってはいるが、もうそれでいい気がした。
「……なんでもない」
いうと、斉藤さんが私の頭に手をのばす。
和也が無言でそれをはらった。
「頭くらいなでさせろよ」
と斉藤さん。
「例え相手がジジイでも許さん」
和也はキッパリ断言した。