18


●リリーちゃん

 小学二年生だったころ。
 夕方というにはまだ早い、明るい昼下がりの午後。クラスメイトの女子といっしょに下校しながら、私は冷や汗をかいていた。
 家の方角が途中まで同じだったので声をかけられたのだが、この子とは話したことがない。人見知りが発動し、すっかりカチコチになってしまっていた。
 うつむき、そっけない相槌ばかりになっていたからだろう。
 その子はすっかり怒ってしまった。
「ひなちゃんお話してくれなくてつまんない。あや、なっちゃんと帰る!」
 他の子の所へ走りさっていく彼女を引き留めることなんて、できなかった。
 ……ごめんなさい。
 自己嫌悪と後悔で肩を落としながら歩いていたら、奇妙な音楽が聞こえてきた。
 古いラジオから流れているような、歪な音。音割れ気味の曲に混じって、甲高く、甘ったるい機械音声が歌っている。
 童謡みたいだ。
 音に誘われるまま細道へ入り、奥へ進むと一件の家にたどりついた。
 洋風っぽい、白い壁。かわいらしい庭木が植えられていて、木製のベンチもある。
 そこに、小さな赤ちゃんがすわっていた。
 ピンク色の服を着ていて、大きな頭。白目のない丸い黒目。顔立ちはデフォルメされたカエルやクマに似ている。茶色の髪の毛はのびていて、ボサボサに乱れている。
 この赤ちゃん人形が歌っていたようだ。
「こんにちは」
「うわぁっ!?」
 いきなり頭上から声をかけられて、身体がはねる。
 垣根の外から庭をながめていたのだけれど、すぐそばに人がいたなんて気づかなかった。
「こ……こんにちは」
 大人の年はよくわからないけど、70歳くらいだろうか。まっ白な髪のおばあさんが、ニコニコしながら立っている。
 庭を見ていたことを怒られるかな、謝らないと。
 ドキドキしていたら、こちらより先に彼女が問う。
「学校の帰り?」
 とまどいながらうなずくと、おばあさんは人形を抱いてもどってきた。
「この子はね、リリーちゃんていうの。私のお話し相手なんだけどね、名前も覚えるし、歌も歌うし、とってもかわいいのよ。ねえ、リリーちゃん。かわいいね」
 腕に抱かれた人形は動かない。代わりに、甘ったるい声でなにかしゃべった。
 ちょっと古いものなんだろう。最近はもっとしっかり喋るものがいっぱいあるけど、この子の声は発音が悪くて聞きとりにくい。
 リリーちゃんは喜んだような声で二言三言くらい話すと、
「オヤスミー」
 といって目を閉じた。まぶただけは可動式らしい。
「ごめんね、もう眠くなっちゃったって」
 おばあさんは人形をよしよしとあやす。
 その光景に背筋が寒くなった。
 近くで見たリリーちゃんは、まるでゴミ捨て場から拾ってきたみたいに薄汚れていたから。
 かわいがっているのに、どうしてキレイにしてあげないんだろう。
 ちょっと臭い。茶色や黄色の汚れがハッキリついている。髪だってバサバサだ。
「あなたお名前は?」
「えっ……保月ひなたです」
 もう帰ろう。来るんじゃなかった。
 この人、なんか変だ。
「また来てね、ひなたちゃん」
 おばあさんは人形の手をとってバイバイ、と小さく振った。
 そのシワシワの笑顔がとっても優しくて、嬉しそうで。私みたいにつまらない子でも歓迎してくれるんだと思ったら、つい。
「うん」
 それから、私は小学校の帰り道にたまにそこへ顔を出した。
 おばあさんはいつでも優しくて、ニコニコしている。
 リリーちゃんはいつの間にか私の名前を覚え、「ヒナチャーン」と鳴くようになった。
 中でお菓子を食べないかと誘われることもあったけれど、まだそれは怖くて断っている。庭先が限界だ。
 そんなある日。
 遊びに行くとリリーちゃんがいなかった。
 いつもベンチにすわっているのに、と探していたら、おばあさんが出てくる。
 目が合ったとたん、なぜか一歩後ずさってしまった。
 怖い。
 背筋がゾクゾクして落ちつかない。それでも、無視するわけにはいかない。
「おばあちゃん、今日はリリーちゃんいないの?」
 たずねたとたん、彼女の両目がくわっと見開かれた。
「リリーちゃんは捨てられちゃったよ」
「えっ」
 ウソ、と見つめ返すと、おばあさんは憎らしげにこちらを睨みつける。
「ひなちゃんがね、いつもいつもうちに遊びに来るから近所のウワサになっちゃってね。嫁に捨てられちゃったのよ」
 ウワサなんてしらなかった。
 それに、この家はリリーちゃんと二人きりで住んでいるといっていたのに。お嫁さんが遊びにきたときにウワサを聞かれたということ?
 混乱していたら、おばあさんは酷く冷たい顔で吐き捨てた。
「リリーちゃんが殺されたのは、ひなちゃんのせいだからね」
「……ごめん、なさい」
 それ以来、おばあさんの家には行かなくなった。
 数年後。
 私は高校生になり、小学校の同窓会に呼ばれた。
 一度小学校に行ってからごはんを食べに行くらしい。数年ぶりの通学路を歩いていたら、童謡が聞こえてきて足が止まった。
 壊れかけのラジオのように音割れ気味の、奇妙で歪な機械音声。
 記憶の中のそれと変わらない……いや、少し低音になったかもしれない。ますます狂気じみている。
 しらずしらずの内に右手が少し震えていた。
 久しぶりに訪れたおばあさんの家はすっかり変わり果てていた。
 高齢だったから寿命で亡くなったのか、単に引っこしたのかはわからない。が、もうここに住んでいないことは確かなようだ。
 人の気配がまるでしない。
 表札がなくなり、すべての雨戸が閉じられている。車もなく、駐車場にはゴミが転がっている。植木鉢やインテリアの類がなくなり、庭は雑草で荒れ放題。
 風化してボロボロに色あせたベンチだけが、いつもの場所にあった。
 そこに。
「リリーちゃん」
 捨てられたはずの赤ちゃん人形の首が置いてあった。
 ボサボサにのびた茶色い髪。すすで汚れた黒いほお。白目のない黒目にずんぐりむっくりした丸い顔でほほえんでいる。
 首から下はどこにも見当たらない。
 ふと、歌がやんだ。
「ヒナチャーン」
 舌っ足らずの甘い機械音声で呼ばれて、ぞわっと悪寒が走る。
 考えるより先にきびすを返し、逃げ出した。
 後ろからはしばらく、私を呼ぶリリーちゃんの声がひびいていた。

●声

 私の声は少し小さいらしい。
 日常生活なら大丈夫だけど、繁華街やうるさい場所ではまるで相手にとどかなくなってしまう。
 和也や斉藤さん、親しい友だちなら気を使って顔を近づけてくれたり、静かな場所へ移動するまで話をひかえてくれる。
 でも、他の人相手だとそうもいかない。
 ある暑い日の昼下がり。
 和也と繁華街を歩いていたら、彼の友人らしい青年が声をかけてきた。
 たまにあることなので、いつもどおり彼らの会話が終わるのをまつ。
 しかし、積もる話がたくさんあったようで、今日はなかなか終わらない。
 ちょっとは会話に参加したほうがいいのかな……。
「大学の友だちですか?」
 悩んだ末にそうたずねようとしたが。
「だい」
「それでさー!」
 青年の声にかき消されてしまう。
「だ」
「そんときあいつが――」
 彼は私に気づいていないのか、こちらを見る気配もない。
 ダメだこれ。話に夢中だ。諦めて大人しくしていよう。
 ため息をつくと、和也が青年の肩をぽんとたたいた。
「ひなががんばって話してるんだからちゃんと聞け」
 青年は一瞬ビクッとして口をつぐんだ。
 さあどうぞ、とばかりに和也がほほえむ。
 私はつい首を振った。
「ごめん。大した話じゃないから、もういい」
 青年が「え? だれこいつ?」とばかりに見てきて、いたたまれない。
 和也は私の背後に回ると、両肩をつかんで少し前に押す。
「遠慮するなって。”テメーさっきからうるせーんだよとっとと消えろ”とでもいってやれ」
 いえるか、そんなこと。
 首をふると、
「あ、ごめん。邪魔したわー」
 青年はおびえた目つきで笑みを引きつらせ、逃げるようにさっていった。
「うん」
 和也はにっこり微笑みながら、ひらひらと手をふる。
 気を使わせてしまったみたいだ。
「ごめん、友だちと話してたのに」
 謝ると、彼はぽんぽん私の頭をなでた。
「ぜんぜん気にしなくていいよ。アレは友だちじゃないから」
 和也は優しい。

●妹

 和也と斉藤さんと私でお茶していたときのこと。
 和也がトイレに行って手持ちぶさただったので、ちょっと気になっていたことをたずねた。
「斉藤さんの妹ってどんな子だったの?」
 呪われて狂い死にしたという話だし、聞いていいのかわからないけど……。
 少し心配だったものの、彼は気にした様子もなく答える。
「顔は俺に似てたな。目つきとか」
 斉藤さんの女版か。
 固そうな髪質は同じだろうか。迫力ある感じの悪女顔でクールビューティー?
「私にも似てる?」
 似てるって聞いてたけど、それはなんかちがうような。
 確認すると斉藤さんはちょっと面白そうな顔をしてこちらを見下ろした。いつもどおりの仏頂面だけど、目が少し笑っている。
「外見は似てないな。あいつは……家に俺の友人がきたら、部屋に閉じこもって気配を消して、一歩も出てこなくなるようなやつだった」
 なるほど。すごい親近感だ。
「写真とかある?」
「ない」
 外は雨だ、とでもいうように彼はさらっと答える。
「昔からあいつの写真をとると心霊写真になるから、まともに顔がうつってる写真が一枚もないんだ」
 顔面がぐにゃぐにゃに変形している写真を想像してしまって、血の気が引いた。

●和也の趣味

 ある夏の熱帯夜。
 たまたま街で出くわしたので、高橋と斉藤がいっしょにバーで飲んでいたときのこと。
「おまえ、心霊スポットにあいつ連れてくのやめてやれよ」
 愛想のカケラもない仏頂面で斉藤がいう。
 高橋は笑顔で即答した。
「やめない。俺の趣味だから」
「嫌がる少女を連れ回すのが?」
 斉藤が犯罪者を見る目をむけるが、高橋はまったく悪びれない。
「ひなを優しく安全にいじめるのが好きなんだ」
 うっとりと恍惚した様子でつぶやく。
 美青年がそんな表情をしているものだから、周囲の女性の熱い視線を集めている。が、斉藤の威圧感を前にして声をかけられないらしかった。
「意味がわからん」
「わかんないか? 俺はひなのいろんな顔が見たいんだ。喜怒哀楽すべて。笑顔から泣き顔……困った顔や嫌がる顔、無表情までぜんぶ好き」
「……」
「でも嫌われるのは怖い。あんまり傷つけるのもかわいそう。グチャグチャの泣き顔とかすっごいみたいけどかわいそう。だから優しく、ほどほどにいじめて愛でる。あとなにかあったら大変だから、本当にヤバイ場所へは連れてかない。俺が対処できる程度の安全な心霊スポットに連れて行く。結果、ひなの嫌がる顔や怯えた顔が見れて、俺のオカルト趣味も満たせてとても楽しい」
 こういう意味だ、と胸をはる高橋。
「そうか、最低だな」
 斉藤は、ひなたに別れを勧めるべきかで真剣に悩んでいた。