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●木崎先生
まだ桜の花びらが残る時期の高校。
「保月、伊藤。全員のノートを回収して職員室へもってくるように」
数学の授業が終わると同時に教師から命じられ、私と伊藤さんは思わず顔を見合わせた。彼女の顔は青ざめている。こちらもきっと嫌そうな表情がだだもれになっていることだろう。
「さっともって行って、さっと帰ろうね」
と伊藤さん。
私は力強くうなずいた。
二人とも、数学の木崎先生がだいっ嫌いなのである。
せっせとノート集めをしていたら、クラスメイトの女子が数人、よってきた。
「大丈夫? かわってあげよっか?」
思いがけない提案に目を丸くすると、委員長が私と伊藤さんを交互にながめてため息をつく。
「このMMコンビを行かせたら、また木崎のS心に火がつきそうで心配なんだよね」
つい、視線が落ちる。
あまり思い出したくないけれど、二人とも入学早々彼に泣かされているのだ。
私の場合、授業中にあてられて回答を間違えた。
そしたら「こんな問題も解けないのか。そんな頭でよくうちに入学できたな」と、立たされたまま30分くらい嫌味をいわれ、嘲笑されて心が折れた。
伊藤さんは授業に教科書を忘れた。
隣の席の子に見せてもらっていたのがバレたとたん、「どんくさいやつだ。いったいなにをしに学校へきたんだ? 今から帰ってとってこい」などと授業の終わりまでネチネチネチネチお説教。泣きながら震える彼女を見ていたら、こちらまで胸が痛かった。
木崎先生は生徒に手をあげたりはしないし、いうことは正論ばかり。しかし、人格否定をまじえた正論を威圧的にいわれ続けると、思春期の身としては心をえぐられる思いがするのである。派手な子や気の強い生徒には優しいのに、大人しい生徒にばかりキツくあたるのも腹が立つ。
私たち以外にも泣かされた生徒が何人もいるらしく、先生が原因で不登校になった者までいるとウワサされている。
「保月さん、いこ」
伊藤さんが肩をたたいてくる。
「うん」
クラスメイトにお礼をいって、私たちは教室を出た。
それから少し経ったころ。
三年生の先輩が自殺した。
木崎先生が担任するクラスの人で、早朝に線路へ飛びこみ、バラバラになってしまったと聞く。
遺書などは残っていないが、みんな「木崎先生のせいだ」とウワサしていた。
自殺の前日、彼女は放課後に呼び出され、長い間お説教されていたらしい。校則で禁止しているバイトをしていたのが原因だそうだが、バイト先の批判から始まり彼女の性格、見た目、家のことまでバカにしていて酷い様子だったという。
しかし、そんなウワサ以外に証拠はない。
木崎先生はなんの処分も受けることなく過ごしていた。
けれど、それからまもなく奇妙な話が広まり始める。
彼の周囲で、自殺した先輩の姿を見たという者がチラホラ出始めたのだ。
職員室で先生の後ろにぼうっと立っていた、とか。彼の授業中にどこからともなく女の泣き声が聞こえてくる、とか。
まあ、そんなこともあるだろう。自業自得だ。
そんな感想を抱いていた、ある日の放課後。
人気のない図書室で本棚をながめていたら、思いがけず木崎先生に話しかけられた。
「この本を読みなさい」
「えっ」
思わず「げっ」といいそうになる。さんざん嫌っているくせに、なぜ声をかけてくるのか。彼はお気に入りの女生徒にはやたら愛想が良いのに、私や伊藤さんにはすぐしかめっ面をする。
しかし、目の前に本をさし出された状態で無視するわけにもいかない。
「ど……どんな本なんですか?」
「説明すると面白くなくなる」
「そうですか」
受けとると、それはいま話題のベストセラーだった。なんだか難しそうだが、泣けるらしい。
お礼だけいって逃げようとして、息をのむ。
明らかに目つきのおかしい女の生首が彼の肩に生えている。
呪い殺してやる、とでもいいたげな形相。歳は18くらい。ざんばらに乱れた黒い髪。先生の服の上から、寄生虫のように生えた青白い首。血走った瞳は常に彼を凝視している。
「……っ」
私が硬直している間に、木崎先生は別の本を借りて図書室を出て行く。
廊下を歩く彼を目で追うと、もう生首は消えていた。
その後、なんとなく気になって。
自殺した先輩についてのニュースや新聞を調べてみた。
すると、朝刊にほんの数行。小さくまとめられた記事に、「遺体の頭部はまだ見つかっていない」と書かれていた。
●余談
木崎先生に怒られた日の学校帰り。
うつうつとして歩いていたら、通学路の途中で和也と出くわした。
「やっぱり。そろそろこの辺通るんじゃないかと思ってたんだ」
車から降りてきて手をふる彼を見たら、なぜか涙腺がゆるむ。
周囲に人気がなく他の車もないことを確認してから、やや早歩きで彼に近づいた。
「おかえり」
微笑む彼の胸に軽く頭突きし、そのまま背中へ手を回す。ちょっと熱いくらいの体温が心地よかった。
「ひな?」
頭上から、おどろいたような声がする。
「なにかあった?」
やんわりとこちらの頭をなで、抱きしめ返しながら和也がきく。
「……疲れた」
それだけ答えると、頭や背中をふれてくる手に力がこもった。ちょっとぐえっとなりそう。
「ウソつけなにかあっただろ。ひなが抱きついてくるなんて。しかも外で!」
「いいたくない」
バカだ低能だと笑われ続けてショックだったのは確かだが、冷静に考えてみれば大したことじゃない。問題を間違えて怒られた。ただそれだけだ。次はちゃんと解けるようにすればいい。
それに、勉強を教えてくれた彼にこんな情けない話をしられたくなかった。
「泣きそうなくせに」
私のほおをなぞり、和也が低くつぶやく。
美人が怒ると迫力がある。その整った造形のせいもあるだろうが、いつもニコニコして優しい彼が豹変するギャップにびっくりしてしまうのかもしれない。
怖すぎて身体をはなすと、彼はいつもの調子にもどってささやいた。
「ほら、だれにいじめられたかいってみな?」
「……」
声音はどこまでも優しいけれど、こちらを見下ろす黒い瞳は笑っていない。
白状したらなにかやらかしそうとでもいうか。
不穏な気配に私はますます口をつぐんだ。
「同じクラスの子? 先輩? 先生? 男と女どっち?」
答えられない。
困って彼を見つめると、和也は長い長いため息をついた。
それからようやく優しい顔をする。
「甘いものでも食べにいこうか?」
「うん」
その後はムリに聞き出そうとせず、そっとしておいてくれた。
ただ、彼はしばらくやたらと過保護になり、木崎先生はなぜか気持ち悪いくらい優しくなった。たぶん、自殺者が出たからだろう。
●クロ
小学校低学年くらいのころ。
親戚の家へ遊びに行くと、3つ上の従兄弟が私と姉を外へ誘った。
田舎だからあちこちに山や川があり、夏はよく外で遊ぶ。そのときはまだ春だったけれど、特に疑問もいだかずついて行った。
田んぼだけが広がる道を進み、獣道をぬけると、小さな一軒家にたどりつく。
廃屋というか、空き家というか。
そこまで古い建物でもないのに長い雑草がそこら中に生えていて、壁や窓に穴が空いている。横開きのガラスの大窓は開けっ放しで、カーテンもなく室内が丸見えになっていた。
「ここ、犬がいるんだ」
従兄弟のあっちゃんはそういって、土足で中へ入っていく。
靴をぬぐと足が汚れそうな所だったから、私と姉も彼に習った。
「犬? どこ?」
と姉。
私は室内に散乱したマンガ雑誌に目を丸くしていた。雨かなにかで溶けてボロボロだ。辺りには同じくボロボロのソファやカーペットが残ったままになっている。湿った、カビ臭い匂いがうっすらとただよう。
「遠くからのぞくとたまにしっぽみたいなのが見えるんだけど、人がいると出てこないんだよ。でもこうやってエサを置いておくと食べるし」
あっちゃんは床に置いてあったお皿を軽く持ち上げて見せる。プラスチックのお皿は空だけれど、少し汚れている。食べた後らしい。
「呼ぶとちゃんと反応するんだ」
彼はそういって、家からもってきていた食パンをお皿に入れて床へ置く。
「クロー」
彼が呼んだ直後。
みしっ、と階段の床がきしむ音がした。
みしっ、みしっ、みしっ、みしっ。
大きくて重いなにかが階段を下りてくる気配がして、私は姉のそばによる。
はあはあという息づかいがかすかにひびく。
なにかが、いる。
なにか……いやこれ人間の、しかも大人じゃないのか。ホームレスが住みついていて、従兄弟はそれを犬だと勘違いしてるんだ。そう思った私はうす気味悪くなり、姉に小声で訴えた。
「帰ろう」
が、彼女は逆にその気配へむかってズンズン進んでいく。
「お姉ちゃん!」
やめてやめて本気でやめて。
半泣きで彼女の腰にしがみつくもあっさり引きはがされ、私は従兄弟の隣でオロオロしながら見守った。
が。
「いない」
残念そうに姉がつぶやく。
もう逃げてしまったのか、どこかにかくれているのか。見つからないらしく、彼女はキョロキョロと辺りを見渡し、物陰を探してからつまらなそうにもどってきた。
「ムリだよ。俺だってさわったことないんだ」
あっちゃんが苦笑する。
「ホントに犬なの?」
姉が皮肉っぽく聞いたとたん、二階の床がパキンッ、と大きくきしんだ。
家鳴りのような、だれかが歩いたような、そんな音。
姉は止めるまもなく素早く階段を駆け上がった。
が、階段の板がぬけ落ちてバランスをくずし、転がり落ちる。
運悪くショートパンツをはいていた彼女の足に赤い血の筋ができていた。
その後。
それでも二階へ行こうとする姉を私とあっちゃんで必死に止めて連れ帰り。
数年が過ぎた。
大きくなってからはあまり会わなくなったけれど、久しぶりにあっちゃんと電話したので、あの家のことを聞いてみた。
けれど。
『空き家? なにそれ』
彼はなにも覚えておらず、クロのこともすっかり忘れていた。
なにをいってもまるで思い出す気配がないので、私の見た夢だったのかもしれないと考えたほどだ。
でも姉は覚えていた。
「あのとき、あんたらが止めるから後でこっそり一人で行こうと思ってた」
などと恐ろしいことをいう。
思いとどまったのは、空き家を出た直後。
「わん」と犬の鳴き声がしてふり返ると、部屋中にびっしりと人の顔が浮かんでいたかららしい。
「きっと、あいつら犬のふりをして子どもを呼ぶんだ」
彼女は独り言のようにつぶやいた。