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●お父さん2

 その後まもなく、父が回復した。
「良かったね」
「うん。ありがとう」
 明日から会社に行くそうなので声をかけると、彼は思い出したようにいう。
「寒気がして眠れなかったとき、変な影を見たんだ」
 ふと目を開けると、豆電球のみの暗い室内で影が動いている。
 母は隣で寝ているし、子どもにしては大きすぎる。
 とっさに泥棒かと思ってヒヤリとした。
 形は明らかに人間で、頭と手足がある。でもそれは人とは思えないほどウネウネと気持ち悪い動きをしていた。よく見ると一つではなく、いくつもの複数の影が父と母をとり囲んで踊っている。
 気温はそれなりに高いはずなのに冷凍庫みたいに寒くて、震えながらそれを見つめていた。
 その内、あることに気づいた。
 彼らは踊っているんじゃない。体全体で「おいでおいで」と手招きしているんだ、と。
「風邪薬の副作用で幻覚を見ることがあるらしいから、そのせいかもしれないけど……あの薬はできるだけ飲みたくないな」
 そんな父の話だけでも血の気が引いたけれど、真相をしって私はしばらく海が嫌いになった。
 後日、和也とともに斉藤さんに会ったときのこと。
 父のクーラーボックスに残っていた白い石を見せると、彼は珍しそうにつぶやいた。
「人骨だな」
 父は死体が流れていた海で釣りをしていた。
 死体の一部を食べた魚を、ちょうど釣り上げてしまったのだろう。
 そんな解説を聞いて、内心悲鳴を上げそうになる。
 ティッシュごしにさわってしまったけれど、それはいい。嫌だけどこのさい置いておく。それより確か父は2匹、魚を釣って帰ってきた。
 母はその1匹を冷凍保存し、もう1匹は調理して……父が夕飯に食べてしまった。
「お父さん、人間食べたの……?」
 わなわなとつぶやくと、斉藤さんがいう。
「この辺でとれた魚のワタなんて生臭くて食えねーだろ。捨ててるよ」
「まあ、魚の口とかヒレとかに引っかかってたごく一部を飲みこんだ可能性はあるけどな」
 和也が意地悪く補足する。
「……斉藤さん、この人やっちゃって」
 軽い気持ちでいうと、彼はゆらりと身をおこした。
 なんか本当に暴力沙汰になりそうな気がして、あわてて斉藤さんの服をつかむ。
「ごめん、冗談だから」
 彼はとても残念そうに舌打ちした。
「ひどいな、ひな」
 和也がくすくす笑う。
「嫌なこというからだよ」
 ちなみに、冷凍保存した魚は斉藤さんに相談して捨てた。

●修羅場一歩前

 少し暑くなってきた週末の夜。
 デートの終わりになぜか人気のない海辺に車を止め、和也が口を開いた。
「食べたいくらいかわいいっていうけど、俺ひななら食えるかも」
「……なにを企んでるの?」
 以前あちこち甘咬みされたことを思い出して、ひそかに視線をそらす。
 キスの一種なのかしらないが、たまにやんわり歯を当ててくるのでビックリした。痛くはないが、変な声でるのでやめて欲しい。
 和也は笑ってシートベルトを外した。
 さてはここ、心霊スポットか。外に連れ出して怪談話をする気だなと身がまえたけれど、彼は手をついてこちらへ身をよせた。
「ホント、さらってしまいたいくらいかわいい」
 そのまま、ガチャリと私のシートベルトを外す。
 なんのつもりかと思っていたら、すぐ真上に彼の顔。熱にうかされたような瞳に射すくめられて、ビクリとした。
 体温が伝わってくる距離とでもいうか。顔も身体もすごく近くてとまどっていたらさらに顔が近づいてきて、目を閉じる。
 和也は基本的に目を閉じないので、私が閉じないとずっと至近距離で見つめられていたたまれないのだ。
 少し長いキスをされてドキドキしつつ、同時に危機感がこみあげてくる。
 大丈夫だとは思うけど……こんなとこでそれ以上しようとしたら頭突きするぞ。暴れるぞ。
 唇がはなれてからおそるおそる見上げると、和也はゾクリとする低音でささやいた。
「最近、なんで俺の家にこないの?」
 月灯りに照らされた彼は思わず見惚れそうになるくらい絵になっている。
 微笑む表情も声も色香があって、優しげだ。
 なのに、探るように見つめてくる目はなぜか冷や汗が出てくるほど怖い。
「ゆ、幽霊が出るから」
「今ならなにもいないよ。これからくる?」
「行かない」
 彼のなめらかな首すじやチラリと見えた鎖骨にちょっとくらっときそうになったが、答えはノーだ。
「なんで?」
 ゆっくりと髪をなでられる。その指先が耳やほおに当たるのがくすぐったい。
「もう遅いから……」
「明日休みだし、泊まっていけばいいじゃん」
 声音は優しいまま、彼の笑みが消える。
 うちはわりと簡単に「友達の家に泊まる」が通用するのだが、そういう問題ではない。
「……」
 ハッキリいわなきゃダメか。
 チラッと視線を上げると、ずっとこちらを見つめていたらしく、すぐに目が合って心臓がはねた。
「あの」
 カッと顔が熱くなる。
 あんまりまっすぐ見てくるものだから、話しづらいことこのうえない。
「やっぱりそういうのまだ早いと……思う」
 嫌じゃないけどまだ高校生になったばかりだし。やっぱりやっぱり刺激強すぎというか、ちょっと罪悪感に駆られるし。
「……」
 勇気をふりしぼっていったというのに、彼は数秒無反応だった。
「和也?」
 怒った?
 とまどっていたら、ようやく口を開く。
「それだけ?」
「え? うん」
 他になにがあるっていうんだろう。
「なんだ、そんなことか」
 和也はいつもの、ほっとするような笑顔でほほえむ。
「ひなが嫌ならしないから、また前みたいに普通に遊びにおいで?」
 てっきりもっと渋るかと思っていたから、あっさりいうことを聞いてもらえて、肩の力がぬけた。
「うん」

●祖母の家

 祖母の家は怖い。
 私が小さいころに祖父が亡くなり、子どもはみんな結婚して出て行った。それから祖母は山の中にぽつんと立つ、古くて大きな家に一人で住んでいる。
 近くに住む叔父や叔母が「いっしょに暮らそう」と何度か誘ったが、「この家を離れたくないから」と断り続けているらしい。
 小さいころはよく家族で遊びに行った。
 ハッキリと覚えているのは5歳くらいのころ。
 大人たちの話に飽きて、私は一人で家の中をウロウロしていた。
 庭木のせいか、家の中は昼間でも少し暗い。
 長い長い廊下の壁には父やその兄妹が幼いころ描いた絵がたくさん飾られている。クレヨンや絵の具でかかれたいびつな人間たちはどこか不気味で、動き出しそうな気さえする。
 廊下をぬけて角を曲がると、なぜかモナリザの肖像画と遭遇する。
 大きな額縁に入った、本物そっくりのレプリカだ。
 西洋の美女の絵なのだけれど、なんだか生きた彼女がこちらを見ているように思えて落ちつかない。
 逃げるように肖像画の前を通り過ぎ、部屋へ入る。
 その先は広い和室だった。
 床一面にたたみがしきつめられていて、たたみと線香の匂いに満ちている。
 まっ暗な室内へ足を踏み入れ、辺りを見回して硬直する。
 そこには金ピカの大きな仏壇が鎮座していた。
 菊の花を飾られたその奥には祖父の写真が置いてあり、彼の目は静かにこちらを見つめている。
 私はびっくりして、家族のところまで逃げ帰った。
 それからはずっと母か姉のどちらかにぴったりくっついていたのだが。
 トイレ、お風呂、歯磨き。
 これらをするときは必ず不気味な廊下とモナリザの前を通らなければならない。
 しかも夜はさらに暗く、ほとんど足元が見えない。
 そばに人がいてもなかなか恐ろしい。
 でも、私達が泊まった部屋はもっと怖かった。
 暗い室内で目を閉じて横になっていると、天井からだれかの足音がする。
 みし、みし、とひびくそれは動物ではなく、どうしても人間を連想してしまう。二階だから上には屋根しかないのに。
 嫌だなと思いながら布団で横になっていたら、部屋のフスマがガタガタとかすかにゆれた。
 ス……と横に動き、5センチほど開いて止まる。
 そのむこうはまっ暗でなにもみえない。
 今にもなにかがむこうからのぞくんじゃないか。入ってくるんじゃないかと思うと背中が寒くなって、隣の姉に声をかけた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
「……なに」
 彼女はもう眠りかけていたらしく、目を閉じたままうなるようにいう。
「いま、フスマが勝手に開いたんだけど」
 そう訴えると彼女は目を開き、内緒話をするようにささやいた。
「あたしもあんたくらいの歳のときに見たことがある」
 姉は自分で見たものしか信じてくれないけれど、見たものはちゃんと信じてくれる。
「朝まで目を閉じてな。……大きくなったら見えなくなるから大丈夫だよ」
 姉はそういってまた眠る。
 なにを見たの? とは怖くて聞けなかった。
 それから数年経って、母から聞いた話。
 祖母は高齢でほとんど目が見えなくなっていて、家政婦さんにお世話してもらっている。
 そのせいか冷蔵庫や棚に腐った食べ物が入っていて、捨てようとしたことがある。
 そうしたら祖母が「勝手に捨てるな!」と激怒した。
「でもお義母さん、これは腐っているから。食べられませんよ」
 そういったけれど聞く耳をもたず。
「家の物に勝手にさわらないで」
 というのでそのままにしている。捨てていいですか、と事前に聞いてもダメらしい。
 そういうことがあるから祖母の家で出された食べ物をうかつに食べないように。
 そういわれたとき、祖母はボケてしまったのかと少し悲しくなった。
「おばあちゃんは家政婦さんがいないとき、腐ったものを食べてるの?」
 聞くと、母はなんとも微妙な顔をした。
「それが……家政婦さんに聞いたら、自分が食べるんじゃないらしいの」
 黒カビの生えた食べ物をお皿にとりわけ、テーブルに放置する。
 食べた形跡がないので捨てていいか聞くと、「まだ食べてないからダメだ」という。
 次の日辺りにもう一度聞くと、「もう食べたからいい」といって捨てさせてくれる。家政婦さんなら捨ててもいいものがあるらしい。もちろん、だれも食べていないのだから、食べ物はひとカケラも減っていない。
 祖母はたまにそんな奇行をくり返すらしい。
 ちなみに、孫がたずねてきたときはそれをすすんで食べさせるそうだ。
 私や姉は食べる前に母がとりあげている。
 しかし、従兄弟の一家が遊びに行ったとき。
 傷んだまんじゅうを出され、気づかずに食べてしまった従兄弟がしばらく腹痛で寝こんだのだと母はいう。
「……」
 きっと、あの古い家にすむ”なにか”にとってはそれがごちそうなんじゃないだろうか。
 ごちそうだから、孫にもあげよう。
 孫に優しい祖母だから、そう考えたのかもしれない。
 そんな妄想がチラリと脳裏をかすめた。