13.修学旅行・後編
じんわり暑い闇の中。
正確にはわからないけど、おそらく3時か4時くらい。耳元でぼそぼそと話し声がした。
「ダメ。連れていけないの」
明里の声だ。
「くぅーん」
「こんな所にいないで早く成仏しなさい」
「きゅーん」
ぱさぱさ、と奇妙な音。
薄目を開けると、茶色のしっぽがゆれているのが見えた。
犬?
ぼんやり視線を動かすと、しっぽの先が存在しないことに気がついた。
犬のしっぽのようなものだけが床に存在し、ぱたぱたとゆれている。
え? これ、幽霊?
ちょっとかわいいかも。
おきようとしたが、身体が動かない。
「あか、り」
代わりに口を動かすと、かすれた声が出た。
とたん、しっぽの辺りから「ヴヴッ!」と獣の唸り声。今にもこちらに飛びかかってきそうな殺気に血の気が引く。
けれど、
「こらっ!」
明里が一喝すると気配ごとしっぽが消えた。
同時に身体が動くようになって、どっと冷や汗が出る。
「……あ、明里。なにと話してたの?」
彼女はジャージ姿のまま、疲れたように壁にもたれた。
「わかんない。犬かと思ったけどなんか凶暴だし……キツネじゃない?」
「茶色かったよ?」
「なんだろうね?」
どこから来たのか知らないが、いきなり顔をなめられて目が覚めたという。
それから二度寝して起床時間におきると、隣の布団で寝ていた沙也がおきるなり顔をしかめた。
「獣くさい」
朝食を終えると、高橋さんからメールがきていた。
「おはよー。今日は授業だけでヒマ。そっちは夜這いとかされてない?」
「されるわけないでしょ」
「ひなは隙だらけだから」
そんなことはない……と思う。高橋さんの前だとちょっとガードが緩くなってしまうだけで。
昨夜と今朝のことを話すと長くなるので、簡潔に返信した。
二日目の午前中は海水浴をし、午後からは自由時間。
私たちは三人で街を歩きながらお土産を物色していた。
食べ物かキーホルダーか、アクセサリー系か。
どれにしようかと頭をひねっていたら、
「保月、ちょっといい?」
めずらしく普通の声量で鈴木君が声をかけてきた。
沙也が私の肩をつかむ。
「ひなた。嫌なものは嫌ってハッキリいいな」
「ちょっと話したいっつっただけだろ!」
顔を赤らめるクラスメイトを見て、冷や汗が伝った。
え? ……もしかして、鈴木君ってそうだったの? 今までのって完全にただの嫌がらせだと思ってたんだけど。
「えーと、じゃ、ちょっと行ってくる」
「ひなちゃん、勢いに負けちゃ駄目だよ」
と神妙な顔の明里。
どんだけ押しに弱いと思われてるの。
これでも訪問販売を断るのは得意だ。お母さんはいませんといってやる。
「大丈夫だよ」
冗談はさておき、連れられるまま人気のない場所に移動すると、おもむろに鈴木君がいった。
「もうわかってると思うけど……好きだ! 姫!」
姫っていうな。
なんて文句も出ないほどぽかんとしてしまった。
いや、確かに数分前から気づいてた。気づいてたけど、生まれて初めて告白されたよ私。
以前自分も告白しようとしたからわかるけど、告白するってすごい勇気いるのに。すごいなあこの人。
「私なんかのどこがいいの?」
「や、姫ってけっこう……アレだし」
アレってなに。
「こんど姫ってよんだら無視するから」
「じゃあ保月ってよぶから」
妙に真剣な目で見つめられて、ちょっとドキッとしてしまった。
「ご、ごめん。ありがとう。気持ちは嬉しいけど」
「嬉しいならいいじゃん」
良くない。
「好きな人いるから」
友達以外にこれを伝えるのはけっこうはずかしい。
「えっこの前のヤクザ?」
「ちがうちがう、別の人」
あとたぶんヤクザでもないと思う。
「じゃ、カテキョとつき合ってるってほんと?」
とっさに言葉につまってしまった。
つき合ってるわけじゃないけど。
「だれに聞いたの?」
明里と沙也にしか話していないけど、二人はちがう。
三人で話しているのをだれかに聞かれたか、高橋さんと遊んでいるのを見られたかだろう。
「ホントなんだ。えー、じゃあカテキョのたびに部屋でやらしいことしてるわけ? それって犯罪じゃね? 援交みてーじゃん」
「変なことなんかしてないよ」
……ちょっとしか。
思わず顔が熱くなる。
髪をなでられたり肩を抱かれたり、手なめられたりはしたけど。ちゃんといつも勉強している。私だって受験生だ。
「じゃ、相手にされてないんだ」
距離をつめられてなんとなく後ずさる。
「それは……鈴木君には関係ない」
「いま告ったじゃん、関係ある」
「ない。片思いでも私は高橋さんが好きなの」
いってしまってから急に恥ずかしくなった。
うあ。鈴木君も目が点になっている。
いたたまれなくなって、私は逃げ出した。
◆
もう9月なのに、沖縄の空は真夏のように日差しが強い。気温も高く、あちこちに陽炎がゆらいでいた。そばの土産物屋からはエキゾチックな三味線の音が響いている。
「あれ、明里は?」
二人と合流して、少し落ちついたあと。
道ばたで紅いもアイスを食べていたら、明里がふらりと歩いて行ってしまった。
「明里?」
「ネコでもいた?」
後を追うと、彼女は暗い路地の中でぽつんと立ちつくしている。
日差しの中から急に影に入ったので、目の前がチカチカして軽いめまいがした。
「あれ」
明里が指さした先で、陽炎がゆらぐ。
いや、陽炎じゃない。ゆらゆらと手まねきするようにゆれるそれは、白い女の腕だった。目が正常にもどると同時に全身の毛穴がざわりと開く。
明らかに生きた人間のものではない。
それは小さな古道具屋の、のれんの隙間から生えていた。残りの体は見当たらず、下からは暗い店内だけが見える。腕のむきから考えて、どうがんばっても身体を隠せそうな所はない。奇形を見た時のような説明できない生理的嫌悪感がこみ上げてきて、無意識に後ずさった。
「キモイ」
同じ気もちらしく沙也が吐きすてる。
ところが明里は気にした様子もなく近づいていく。
「でも別に怖くないし。悪いものじゃないのかも。”おいで”っていってるみたい」
正気かと激しくつっこみたい。
霊に好かれる人って霊に惹かれやすかったりするんだろうか。
「あたしはむちゃくちゃ怖いけど。ていうかキモイ」
引きつった顔で沙也が明里の腕をつかみ、大通りの方へ引き返そうとする。その隣を歩いていたら、背中が急にヒヤッとした。反射的にふり返ると、のびきったゴムのような白い手が明里の背中をつかんでいた。
血の気が引いてとっさに彼女の腕をつかむ。沙也もつかんだままの明里の腕に力を入れて踏みとどまろうとするが、まるで止められずに三人そろって落下するように引きずられた。
思わず死を覚悟してしまったとき、けたたましい犬の鳴き声が響いた。
近所の犬みたいな生やさしいものじゃない。猟犬が獲物をかみ殺すために追いたてるような、聞いているこっちまですくみあがる野生の獣の声。
いつのまにか私たちを引っぱる力はなくなっていた。
白い手は消え、犬もどこにもいない。
しばらく呆然としていたら、沙也が顔をしかめた。
「獣くさい」
私にはわからないけれど、たぶん彼女の方が感覚が鋭いんだろう。
明里は大丈夫だろうか。
様子をうかがうと、恐ろしいことに彼女はさっき引きずりこまれそうになっていた店内に自ら入ってしまった。
「明里!?」
自殺行為にもほどがある。あんな目にあってもあの手は悪いものじゃないというつもりだろうか。あわてて後を追うと、いつのまにか中に店員さんがいた。
「いらっしゃい」
頑固そうなおじさんだ。こちらを一瞥するなり、広げた新聞に視線を落とす。私がびっくりしている間に、明里はいろんな物が雑多に飾られている棚からなにかをとり、おじさんにたずねた。
「これ、本物ですか?」
黒とこげ茶が混ざる、小さな毛皮のキーホルダー。
見た瞬間にあっと声を上げそうになった。今朝のしっぽが小さくなったみたいにそっくりだ。どことなく生っぽいというか、剥製から作りましたという感じの独特の毛づやをしている。
「ああ、犬の毛だよ」
お爺さんの言葉に明里は少し眉をひそめたが、
「これください」
と財布を出した。
千円くらいだった。
「キモイキモイキモイありえない! 返してきなよそんなの。犬殺して皮はいで作ったやつでしょ? 動物の死体なんてもち歩いてなにが楽しいの? 悪趣味じゃん。呪われそう」
店の外でまっていた沙也が露骨に嫌な顔をする。
その意見には賛成だし、明里もきっとそうだろう。しかも怪しげな店で買ったものだ。でも、今回に限って反対する気にならなかった。
「それって、もしかしてさっき吠えた犬?」
明里がうなずく。
「あそこで売ってるって知ってたの?」
「ううん。でもきゅんきゅん鳴いてたからそうだと思って……助けてくれたから、連れて帰ってあげることにしたの」
このキーホルダーは今朝の犬だと思う、と彼女はいった。
「そいつさっきの手とグルなんじゃないの? 泣いた赤鬼的な」
沙也が冷ややかなまなざしをむける。
「そんなことないって」
と明里。
「見てもいい?」
本当に犬の毛なのかと手をのばしたら、耳元で低い唸り声が響く。
「それが嫌いみたい」
明里が私のブレスレットを指さした。
◆
修学旅行から帰ってきた週末の昼下がり。
ミスドでお茶しつつ私は高橋さんに旅行中のことをかいつまんで話した。ひと通り聞き終えて、高橋さんがなぜか軽くふてくされたように問う。
「なんでミスド?」
「落ちつくし長話しやすいからだけど。嫌いだったっけ?」
というか、主に怪奇体験を話したのにそれについての感想はないのか。
高橋さんは私のほおを軽くなでた。
「嫌いじゃないけど、ここじゃ抱きしめられないじゃん。5日ぶりなのに」
人前でそーいうことをいうんじゃない。
「だ、抱きつかなくていいの。会って話せれば」
今のところ周囲の客たちはお互いの会話に夢中で、こちらの事なんか気にしていないようだったけれど、つい小声になってしまった。
高橋さんがほおづえをつき、なんとも意地悪そうな顔をする。
「本当に? ひなは俺にさわりたくない?」
「……っ」
本当は、ちょっとだけ。
さらさらした黒髪をなでたいし、歩いてる間に手をつなぐのが嬉しい。
でも、鈴木君の言葉が脳裏によみがえって胸がざわざわした。せめて、家庭教師の期間が終わるまではこれ以上のスキンシップを避けた方がいいんじゃないだろうか。
そもそも高橋さんのこういう態度がわからない。好意は感じるが教え子をからかっているだけなのか、一時の火遊び的感覚なのか、本気なのか。
「高橋さんって、私のことどう思ってるの?」
「かわいーと思ってるよ。すっごく」
聞きたいのはその言葉じゃない。
複雑な心境で口ごもると、
「なんかあった?」
高橋さんが優しげにたずねた。
「カテキョとやらしーことしてるのかとか、相手にされてないんじゃないかとかいわれた」
「へえ。なんでそんなこと言われたわけ」
「さあ。たぶん今日みたいに会ってる所を見られたんだと思うけど」
「そーじゃなくて。そもそもどうしてそんな話になった?」
「え」
それは非常にいいにくい。
思い出すと勝手に顔が熱をもった。
「告白されてふったら逆ギレされたとか?」
なんでわかるの。
おどろいて高橋さんを見ると、彼は一瞬だけ不機嫌そうな表情を浮かべ、おだやかに微笑んだ。