18.寝言

 後日、休日の昼さがり。
 直接お礼がいいたくて、高橋さんのマンションへむかおうとしていたら、出がけに母が「これ親戚に送ったやつの余りだけど、もって行きなさい」とお茶菓子をいくつかくれた。
 「友達の家に遊びに行ってくる」としか説明していないのに、なにかいいたげな顔でみつめられる。
「咲月がおきない時にね、何度か気持ち悪い影を見たんだけど、いつのまにか見なくなったんだよね。あんたなにか知らない?」
 明里や高橋さんほどではないが母にも霊感があり、勘がするどい。
 高橋さんたちのことを話そうかと迷ったが、やめておいた。
 姉は当事者だからいいが、それ以外の人に話すと高橋さんが嫌がりそうだと思ったから。病院で母と会ったときも霊の話はかくしていたし……思い返すと、明里と沙也に話していたと知ったときも彼はひそかに嫌がっていた気がする。特に口止めもされていないし、出会ってまもないころの私に軽く話したくらいだから、わりと他人に話しているのかと思っていた。でも、そうでもないのだと最近ようやくわかってきた。
「知らない」
 とだけ答えて、家を出る。
 マンションには斉藤さんも訪れていて、ちょうどよかったので二人にお茶菓子をわたすと共に礼を告げた。
「力仕事は無理だけど、掃除とかお使いくらいなら手伝うよ」
「じゃ、来週の土日てつだってもらおうかな。ついでにジジイを紹介してあげよう。あれでなかなか面白い人だから」
 と高橋さん。
「うん。土日あけておくね」
「斉藤もくる?」
「俺は俺でいそがしい」
 心なしか疲れているようだ。午前中に一仕事おえてきたのかもしれない。
「肩でももむよ」
 手伝いを押し売りしても鬱陶しいだろうし、このほうがいいだろう。
 斉藤さんが一瞬「は?」という顔でこちらをにらんだが、けっきょくなにもいわなかったので気にせず手をのばした。
「意外とこってないね」
 マッサージ素人だが、たまに母や姉ともみあいっこしているのでこっているかどうかくらいはわかる。幅の広い肩はしっかり筋肉がついていて分厚く、つかむのに苦労した。
「なんで斉藤には自分からさわる……?」
 高橋さんが恨みがましげにつぶやく。
「追いかけ回されると逃げたくなるんだよ高橋さん。他意はないしね」
「そして逃げられると追いたくなるという無限ループに陥るわけだ。俺の肩ももんで」
 ちなみに、高橋さんの肩はすごくこっていた。
「じゃあな」
 用事が済んだらしく、斉藤さんが帰ろうとする。
「高橋さんの家だから私がいうのもなんだけど、斉藤さんもたまにはゆっくりしていけばいいのに」
 まだ午後三時にもなっていない。
 何気なくいうと、彼は靴をはきながら横目でこちらを見た。切れ長の瞳に私の顔が映る。
「殴って欲しいか?」
「え!?」
「あいつ」
 ちらりと視線を高橋さんに動かす。
 どうしてそういう話になるのか。
 高橋さんはじとーっとした目で静観している。
「ううん、別に」
 もしかして、高橋さんと私がちょっと微妙な空気になっているのに気づいていたんだろうか。
 首をふると、彼は黙って出ていった。
 バタンと無情にドアが閉まる。
「えーっと、じゃ、私もそろそろ帰」
「なんで? まだ来たばっかじゃん」
 するりと腰に腕が回され、耳に息がかかる。かすかに男物の香水の匂いがした。
「……こーいう流れになるかと思ったからだよ」
 のしかかるように後ろから抱きすくめられて、顔が勝手に熱をもつ。
「わかってて来たんだ? 期待には応えないとなー」
 み、耳をかむんじゃない。
 確かに姉の言葉で「いいかな」とは思っちゃったけれど、やっぱりちょっといざとなるとひるむというか、斉藤さんがいてホッとしていたのに。
「寝不足なら大人しく寝てなよ」
「昨日は薬なしで寝れたし平気」
「え? 眠れるようになったの?」
「ん? 前から薬飲まなくても眠れるときはあるよ。眠れないときのほうが多いっていうだけで」
「へー」
 いつか治ればいいのに。
 なんて思っていたら大きな手のひらが胸にふれてきて、体がこわばる。どうしていいかわからずにいたら、彼が笑いながらささやいた。
「大丈夫、今度はちゃんと優しくするから」
 正面にまわって顔を近づけてくる。
「それとも俺のこと嫌い?」
 黒い瞳に自分が映っているのがはずかしくて顔をそらしそうになったけれど、ほおに手をそえられていてそらせない。
「……すき」
 観念して、かなりかなりかなりかなりはずかしかったけれど目を閉じた。
 熱をもった感触に背筋がぞくりとする。
 この前とちがい、それは優しく優しくついばむようにふれてくる。ふれるだけのキスなのに気もちよすぎて頭がぼーっとしてしまって、とろんとしていたら高橋さんのスマホから着信音が鳴りひびく。
 電話のようだ。
 ぼんやり我に返ると、服を着たままブラのホックが外されていて、スカートの中で太ももをなぞられていた。手つきが妙にねちこくていやらしい。
「んん……!?」
 いつのまに。
 おどろいて唇をはなすと、再び口づけられそうになる。
 スマホはずっと鳴り続けている。
「な、鳴ってるよ」
「無視だ無視」
「緊急かもしれないでしょ」
 私のパンツをずり下ろそうとしていた手をぺしっと払いのけてスカートを押さえると、彼はがくりとうつむいた。
「しょうもない用件だったら殺す……!」
 彼が電話に出たとたん、回線の向こうの声がかすかにこちらまで聞こえてくる。内容はよくわからないがひどくあせっているようだ。重要な用件らしく、高橋さんが眉根をよせる。
「……なんかいそがしそうだから帰るね」
 そそくさと乱れた服をもどし、小声で告げて私は部屋を出た。
 まだ明るいのに、外は冷たい風が吹いている。
 さわられていた感触がまだ生々しく残っていて顔から火が出そうだったから、ちょうどよかった。
「また今度つづきしよ」
「……」
 帰宅すると同時に届いた高橋さんからのメールに返信できないまま数日が過ぎ、家庭教師の日になる。
 彼がやってきて、いつも通り私の部屋でテキストを広げる。
 さすがに授業中は怪しい雰囲気になることもなく、むしろちょっとスパルタ気味に勉強が進んだ。怒鳴ったりキツイ言葉を吐かれたりすることは一切ないが、ちょっとトゲのある言葉が入ったりお説教が長引いたりする。すでに志望校の合格圏内の成績なのだから現状維持でいいじゃんと思うのだけれど、それが彼にとっては「もったいない!」らしい。受験シーズンが迫ってきたからってそんなに気合入れてくれなくていいのに。
「そうそう、神社の手伝い土曜日になったから。朝むかえに行く」
 一息入れたとき、コーヒーに口をつけて高橋さんがいった。
「うん。なにすればいいの? 掃除とか?」
 彼はニヤリと笑う。
「面白いもんが見れるよ」
 あれ、ちょっとヤな予感。
「こ」
 怖いのは嫌なんだけど、といおうとすると同時にちゅっとキスされて心臓がはねる。
「さ、勉強勉強」
 高橋さんが楽しげに机にむき直る。
 話をそらされた気がしなくもない。

◆

 約束していた土曜日の朝。
 日が昇るのが遅くなってきたらしく、辺りはまだうす暗い。霜が降りたせいか、辺りには白くもやがかかっている。風景がはっきり見えないから、一人だったら少し心細くなっていたかもしれない。きっと、タクシーの運転手が雨幽霊を拾うのはこんな雰囲気の日だ。雨は降っていないけれど。
 そんな中、移動中の車内で高橋さんが問う。
「寝言に返事しちゃいけないって話、知ってる?」
「聞いたことある。おきられなくなるとか、死ぬとか」
 迷信だとは思うけれど、とても試す気にはなれない。
「じゃ、寝言とケンカして負けちゃいけないってのは?」
「ケンカ? 寝てる人とケンカなんてするの?」
「できるみたいなんだ、それが」
 ある所に同棲中の大学生カップルがいた。
 女のほうは普段から寝言が多くて、男はたまに話しかけたりしていた。おきているときと変わらない返事をするのが面白かったらしい。
 ある夜。
 同棲しているマンションでいつもどおり眠る女に話しかけていたら、つまらないことでケンカになった。確か女が男友達と遊びに行ったけど、男も女友達と合コンに参加してたとか、そんなことで。
「俺からしたらお互いさまじゃんって感じなんだけど、気が弱いうえに口下手な男だったらしくてさ」
 女は男友達とちょっと昼食を一緒に食べただけだが、合コンは明らかにそういう目的の場所だし恋人がいる身で行くべきじゃない。男のほうが悪い。
 そう押し切られて負けてしまった。
 さすがに不愉快に思い、男も布団にもぐって目を閉じた。
 直後、女が布団から半身をおこす。
 なんだ、途中からおきていたのか。
 そう思ったが様子がおかしい。
 上半身をおこしてまっすぐ前を見つめたまま、一言も口を利かないのだ。
 寝ぼけているのか?
 肩をゆすって名前を呼んでも反応しない。目を開いているのになにも見ていない。よく知っている彼女ではなく、言葉が通じないなにかと向かい合っているようで身の毛がよだつ。けれどほうっておくわけにもいかなくて声をかけ続けていたら、彼女はいきなり倒れるように眠った。
 翌朝、問いただしたがケンカしたことも上半身だけおこしたことも覚えていない。
 けれどそれから女は変になった。
 おきている間は普通なのだが、夜中の二時ごろになるといつも上半身だけおこしてじっと前方を見つめる。そうしているときは呼びかけても返事をせず、まばたきもしない。だいたい5分くらいするとバタッと倒れるようにまた眠るのであまり気にしていなかったが、それだけではすまなかった。
 二週間くらいしたころ。
 まだ空が暗い早朝に物音がして男が目を覚ますと、玄関から女が入ってきたところだった。
 夜中にどこかへ出かけていたのか。
 たずねるより先にぎょっと目を疑う。
 女は全裸だった。
 汚れた素足で室内へ上がる彼女に声をかけてもまるで反応がない。目は開いているのにぼうっとした顔で寝室へ行こうとする。だれかに暴行されたんじゃないかと心配になってほおをたたくと、今目が覚めたというように我に返った。
「痛い! なにすんの!」
「そんな格好でどこ行ってたんだよ!」
「格好ってな……!? なんであたし裸なの?」
 女はなにも覚えていなかった。
 暴行を受けたような形跡はなかったので少しだけ安心しつつ、事と次第を説明する。
「おまえどうしちゃったんだよ。おかしいよ」
 ため息をついた直後。
「うるせえな」
 まったく知らない男の声で女がいった。
「えっ」
 とっさに後ずさったときには女はいつもどおりに戻っていて、不思議そうな顔をしている。
 それからも女は毎晩夢遊病のごとく歩きまわり、今は精神科に通院している。
「精神病院は行ったほうがいいと思うけど、お祓いにも行ったほうがいいんじゃ……」
 怖い話だとつぶやくと、高橋さんが満面の笑みで告げた。
「うん。だから今日くるんだ」