21.さっちゃん
私が幼稚園児だったころ。
近所のお姉ちゃんによく遊んでもらっていた。歳は4つ上で、あだ名はさっちゃん。明るくて面白い子で、いつも補助輪のついた自転車にのっている。それをホウキ代わりにして、よく魔女っ子ごっこしたものだ。
夏の夕方、気温で熱された水道水で手を洗っていたら「温かい水道水で手を洗うと呪われるんだよ! あーあー呪われたー!」と脅されて大泣きした苦い思い出もあるけれど、なんだかんだで一番かまってくれる彼女に私は懐いていた。
そのころから人見知りで友達が少なかったし、姉は自分の友達と遊ぶのに夢中で遊んでくれなかったから。
そんなある日、さっちゃんが花を見せてくれた。
彼女の家はアパートの一室で、玄関の脇に丸い植木鉢を置いている。そこには色とりどりの小さなパンジーが植えられているのだが、それはとても大事な花なのだという。
「これはお母さんのパンジーだから」
さっちゃんのお父さんとお母さんは離婚して、お母さんが出て行ってしまった。
けれどお母さんはこのパンジーをとても大事にしていたから、いつかきっと取りにもどってくる。その日まで毎日、大事に大事に世話をしている。そうしてお母さんがこれを取りに来たら自分も一緒に連れていってと頼むのだと、彼女はいう。
「内緒だよ? ひなたちゃんだから話したんだからね」
「うん」
さっちゃんがいなくなってしまうのは寂しいけれど、彼女があまり熱心に語るので、応援しようとひそかに決めた。
それから、だいたい二週間くらい経ったころ。
二泊三日の家族旅行から帰ってきて、お土産を手に彼女の家をたずねた。もう夕方だったけれど話くらいならできるし、久しぶりに会えると思って浮き足だっていた。けれど、異変に気づいて息が止まる。
さっちゃんの大事なパンジーがぐしゃぐしゃに荒らされ、植木鉢から土がこぼれている。
それは何度も力強く踏みつぶされたようにぺしゃんこで、大きな靴の足型がいくつも残っていた。
ひどい。彼女があんなに大事にしていたのに。だれがやったのか知らないが、今ごろ癇癪をおこして泣いているんじゃないだろうか。
なぐさめてあげようと思いながらインターホンを鳴らすと、彼女のお父さんが出てきた。
「ああ、ひなたちゃん」
だまっているとキツそうな顔つきだけれど、目が合うといつもにっこりほほえんでくれる。よく美味しいおやつを作ってくれるので、彼のこともわりと好きだった。
「幸子は今風邪で寝こんでて会えないんだ」
「え……そうなんですか。じゃあこれお土産です。さっちゃんにあげてください」
「ありがとう。また遊びにきてね」
ぎい、と軽くきしんでドアが閉じる。
あの花のことを彼に教えればよかったと気づいたのは、自分の家についてしまってからだった。
でも自分の玄関のことだし、きっともう気づいているだろう。
二日後。
再びさっちゃんの家をたずねると、花は植木鉢ごと消えてしまっていた。
「ここにあった花」
どうしたの、と問うまでもなく彼女のお父さんが答える。
「ああ、捨てたよ。枯れてたから」
やっぱりそうなのか。
花が枯れたから捨てる、なんてごく当たり前だがなんだか切ない。
「さっちゃんは」
「幸子はまだ風邪なんだ。ごめんね」
まだ会えないのかと肩を落とすと、彼は申し訳なさそうな顔をしたままたずねた。
「ひなたちゃんは……」
なんだろう。
「いや、なんでもない。また見舞いにきてやってね。幸子も喜ぶよ」
けれど彼女の風邪はなかなか治らず、それから何度たずねてもさっちゃんのお父さんしか出てきてくれない。手紙を書いても返事はなく、いつしか自然と足が遠のいて月日が流れた。
中学三年生になり、受験まであと数ヶ月というころ。
なんだか懐かしい気分になって、学校帰りにさっちゃんのアパートの前まで歩く。あわよくば彼女に会えたらいいなと思っていたけれど、そこは空室になっていた。他の部屋は電気で明るく照らされているのにその部屋だけは暗いままで、表札も空になっている。
どこかへ引っ越したんだろう。もう何年も会っていなかったのだから、そういうこともある。
わかっていても少しさびしくて、家に帰って母に愚痴った。
「いつのまに引っ越したのかな。お別れくらいいいたかったのに」
「え……あんた、あそこの家の子と遊んでたの?」
テーブルで茶をのんでいた母が目を開き、盛大に顔を引きつらせる。
そういえば、さっちゃんとはいつも二人で遊んでいたから、私たちが友達だと知っていたのは彼女と彼女のお父さんだけだった。
「昔ね。幼稚園児くらいのころによく家へ遊びに行ってたんだよ。ほら、よくドーナッツ作ってくれるおじさんがいるって話し」
「ギャー!? なにそれ聞いてないっ!」
母がいうには、さっちゃんは十年前、私が幼稚園児のころに殺されていたらしい。
犯人は父親で、娘が離婚して出ていった妻のことばかり気にするのが面白くなく、カッとなって殴り殺してしまった。そうして、他の住人が異臭を訴えるまでの3週間ほど、死体と一緒に暮らしていたという。
何度かお見舞いに行ったあの時、扉の向こうには彼女の死体があったのだろうか。
◆
友達と食べるお昼ごはんは美味しい。
しかし、毎日顔を合わせているとどうしても話題がつきてくる。
中学校の昼休み中。
教室で友達とお弁当を食べていたら沈黙が流れてしまい、どうしようかと思っていたら明里が怪談を聞かせてくれた。
「昔からよく金縛りにあうんだけどね、今までで一番怖かったのは」
「金縛りってのは体が眠ってて脳だけおきてるときにおこる生理現象だよ」
すかさず沙也がつっこむ。
それは私も聞いたことがあるが、実際に不可思議な現象を何度か目にしてしまっているので、どちらかというと霊現象派だ。
「沙也も霊がいる所に行くと頭が痛くなったりするじゃん」
指摘すると、彼女は軽く身をのりだした。
「それはそれ、これはこれ。霊を信じるかどうかは別として、金縛りはただの疲労でしょっていってんの」
「えー、ちがうよ! 疲れてるときの金縛りとちがって、霊がきてるときは寒気がするの」
冷蔵庫を開けたときや、クーラーをつけたときみたいにすうっと冷たくなる感じらしい。
その夜も、寒さで目が覚めたのだという。
来るな来るなと必死に念じていたら両足をつかまれ、布団から引きずりだされた。体が床にぶつかって痛いのに動けない。悲鳴をあげたくても声はでないし動けない。唯一動かせる目をむけると、小さな子どものような手首が足をつかんでいる。
そのままズーッと引きずられ、やがて壁にぶつかる。さすがにこれ以上は引っぱれないだろうとほっとした瞬間、スルッと自分が体の中から引っぱり出されてしまった感覚に襲われた。ふり返っていないのに、真後ろに自分の体があるのを感じた。
「幽体離脱ってやつ?」
おそるおそる問うと、明里はこくこくうなずく。
「ヤバイ! と思った瞬間に体にもどってたの」
ぜったい体験したくない話だ。
「あ、あとねー。去年の今ごろ、女の人の幽霊が出たよ」
幽霊は和服姿だったらしい。
夕食後、家族でテレビを観ていたら部屋の隅にそれが立っているのに気づき、必死に視線をそらした。霊感があるのは明里だけなので、そばにいる家族は気づかずに平気な顔をしている。
それがとても怖くてうつむき気味にしていたら、女性は何度かそばを通りすぎ、いつの間にか消えていた。
「なんでしらない人がいきなり家にわくの?」
解せぬ、と沙也が眉をひそめる。
「さあ。いつもいきなりっていうか、前ぶれあったことがないし」
つくづくおそろしい体質だ。
「最近は大丈夫なの?」
問うと、彼女はなぜか苦笑した。
「ポチが追い払ってくれてるみたい」
犬の霊に名前をつけたらしい。
「ああ、あの死体の毛」
「そのいい方やめて」
沙也のつぶやきに、つい二人で声をそろえてしまった。
「幽霊以外のものまで追い払っちゃうのが玉にキズだけどね」
あらぬ方を見る明里の視線を追うと、彼女の足元に犬のしっぽが見えた。
◆
雪がふりそうなくらい肌寒いある日。
冬休みに入り、私は高橋さんと二人で繁華街をうろついていた。年末だけあって道はほぼ人で埋めつくされ、周囲の店は客をのがすまいと必死にセールの呼びこみをしている。
「ひなの方からどっか出かけたいなんて珍しいな」
高橋さんが嬉しそうに笑う。
「なんとなく」
「つーか、さっきからすげー歩きにくそうだけど大丈夫? 寒いしどっか入ろう」
「うん、ありがとう」
もともと人混みは苦手だが、今日は輪をかけて人が多く、歩きにくくて困っていた。もう少し空いてそうな場所を選べばよかった。手を引かれるまま近くの喫茶店に入って、目を見開く。
「あ、斉藤さん」
女性客が多い、落ちついた雰囲気の店内。
奥のソファー席に、面倒くさそ~な顔をした斉藤さんと大学生くらいの女の人がすわっている。彼はほぼ常に仏頂面だが、仏頂面にも喜怒哀楽その他のバリエーションがあるのだ。
女性はキリッとした感じの美女で、あらわになっている白い胸元や太ももがとてもセクシー。腰に届きそうな黒髪がすごく似合っているのがうらやましい。私も黒髪だけれど、あんまりのばすと重たくて暗い印象になってしまうので、あそこまでのばしたことはない。
「デートかな?」
似合いの二人だ。
「だろうな。あいつ枯れてると思ってたけど」
はなれた席で楽しく観察していたら、声が聞こえてしまったらしい。
軽くイスにもたれていた斉藤さんと目が合ったかと思うと、彼はテーブルにお金をおいてこちらにやってきた。
「わ、こっちくる。怒ったのかな」
「ほっとけほっとけ。それより注文決めた?」
それよりって。
「ちょうどよかった」
そうこうしている内に斉藤さんが私の隣のイスに手をかけ、
「そこは許さん」
高橋さんが真顔で告げた。
斉藤さんが別の席にすわり直し、一緒にいたお姉さんがこちらのテーブルまで追ってくる。ロングブーツの足がすぐそばで止まるが、斉藤さんは見返すだけでなにもいわない。高橋さんも涼しい顔をしてだまっているので、ここは私が声をかけるべきかと激しく悩んだ。
よかったらここどうぞ、か。用事があるフリで高橋さんと外へ出るべきか。
「あの」
ためらいながら口を開くと、ほぼ同時に彼女が宣言した。
「諦めないから」
化粧は上手いし、お洒落で恋愛なれしていそうなのに、ほおがうっすら赤くそまっているのがかわいらしい。つい見とれてしまっている間に、彼女はさっそうと店を出て行ってしまった。
わあ、修羅場だ。どうみても恋愛がらみの修羅場だ。
「彼女?」
わくわくしながら斉藤さんの様子をうかがうが、彼は一つため息をついただけだった。
「知り合い」