23.帰郷

 新年をむかえて、お正月気分が残るころ。
 私はいつものように自分の部屋で家庭教師の授業を受けていた。隣にすわる黒髪の美青年は飽きもせずにこちらをながめている。最初の内は視線が気になって問題に集中できず、「あんまり見ないで」と文句をいったりもしたのだがなぜか喜ばれ、小動物を見るようだった目があやしい熱をもったのに気づいてからは無視するようにしている。もうなれた。
 勉強が一区切りついた休憩中。
「高橋さんって今まで何人とつき合ったことあるの? どんな人?」
 ふと気になってたずねると、彼が小さく笑った。
「え? 気になる? 聞きたい?」
 しかたないなーとかいいつつ嬉しげに語りだす。
「ひなで三人目」
 平均どれくらいなのかわからないけど、意外と普通。いろいろ手馴れているから、多かったらどうしようかと思った。
「一人目は高校の時で、一個下の後輩と二年くらいつき合ってたんだけど。男友達とばっかり遊んで彼女放置してたら、疎遠になっちゃって別れた。気が小さくて、他人に文句いったりできない子だったからなー。俺がもっと察してあげられれば良かったんだけど、あの頃は若かったというか。悪いことしたなぁ」
 彼女を放置する高橋さんが想像できない。
「それを教訓にして、毎日メールやら電話やらするようになったの?」
 マメに会ってるんだし、別に2,3日に1度くらいでも大丈夫なのに。
「いや、ひながかわいいから。俺の癒し。もうずっとうちに置いておきたい」
 彼が私の肩を抱きよせ、髪に口づけたあと頭に頭をもたれかけてきた。
 どこまで本気かわからないが、柑橘系の香水の匂いや固い胸板にドキドキするのでそれくらいにしておいて欲しい。高橋さんは引き締まっているという程度で、けしてマッチョなわけじゃないのに、なんでこんな全体的に筋肉質で骨ばっているんだろう。男の人ってみんなこうなんだろうか。
「二人目は?」
「二人目は大学入ってすぐの時に同級生と。見た目は大人しいのにむちゃくちゃ気が強くて。つき合って二週間で大ゲンカして別れた。今もたまーに出くわすんだけど、すげー気まずい」
 彼が女の子とケンカ? またしても想像できな……いや、わりと怒りっぽいかも。いつもニコニコしているけど、本当はけっこう気難しいんじゃないかなと思う時がある。
「なんで突然ロリコンに目覚めたの?」
「だから俺ロリコンじゃないって。他の中学生みてもなんとも思わないし……ってか、ひなが悪い」
「私?」
「教え子だし中学生だしで我慢してたのに、俺の家に来たりするから……うん、ひなのせい」
「行ったら駄目だった?」
「なんで。嬉しかったっつってんの」
 めずらしく、子どもみたいな笑顔で彼が笑う。
「ひなは? 恋愛経験」
 「まあ無いだろうけど一応聞いとくか」とでもいいたげな態度が腹立たしい。見栄をはりたくなったけれど、どうせバレバレなのでやめておく。
「……ないよ」
「うん、知ってた」
 彼がニヤリとする。
「なんかずるい」
「……他の男ともつきあってみたい?」
 黒い瞳がこちらをのぞきこむ。
 まつ毛が長くて綺麗で、見惚れそうになる。透明感のある肌と黒髪のコントラストが色っぽいと思う。
「ううん、高橋さんがいい。昔の話とはいえ、高橋さんが他の女性とつき合ってたのがムカつくけど」
 じっと見つめ返したまま、彼を見習って素直な気もちをいってみた。
 はずかしいセリフにどもりそうになったけれど。ほんのり顔を赤くした彼の姿を見て、いって良かったと思う。
 高橋さんは口元を押さえ、笑いながらつぶやいた。
「ひなが、ひながカテキョ中に誘惑してくる……密室に二人きりでしかもベッドがそばにあるこの状況で。悪魔だ」
 なんでそーなるの。
「してない。してないから安心して。だいたい今までもずっと密室だったし」
「えー、なに、俺を独占したいの?」
「聞いてる?」
「かーわーいーいー」
「お仕事しなさい」
 テキストのページをめくって、私は告げた。
 休憩時間はそろそろ終わりだ。

◆

 ある休日。
 高橋さんの部屋のソファで、私は大人しく抱きしめられていた。ちなみに二人とも服は着ている。いつもならはずかしくて長い間じっとしていられないのに、なぜか今日は甘えたい気分なのでそのまま身を任せている。
 どうしたんだろう私。さすがに慣れてきたんだろうか。
 少し考えて、原因に気づく。
 あ、そっか。高橋さんの元気がないからだ。
 いつものような軽口がない。眠いのかなとも思ったけれど、表情をみるかぎり憂鬱なだけのようだ。普段はカッコイイけど、これはこれでかわいい。しばらくこのままでもいいかも。
 なんて思ってしまったけど、かわいそうなので問いかける。
「なにかあったの?」
 彼が私の首筋から顔を上げる。吐息が耳にかかってくすぐったい。
「弟が……」
「弟さんが?」
 まさか亡くなったとか。
「実家に帰ってこいってうるさくて」
「帰ってあげなよ」
 めずらしく高橋さんがだまりこむ。
「そんなに嫌なの?」
 ふり返るために腕をほどこうとしたら、かえって力をこめられた。しかたないので身をよじり、横むきになって彼の頭をなでる。眉間にきざまれていたシワがほんのりやわらいだ。
「身内の葬儀でもない限り帰りたくない。でも、もう3年くらい顔見せてないからなー。去年からしつこくてしつこくて」
「そういえば、いっぱい電話かかってきてたね」
「そー。バイト先と友達と親と、弟と心霊相談のやつ2,3人。次々かかってくるからスマホ捨てようかと思った」
「大変だね」
 よしよしと頭をなで続ける。
「でも、なにがそんなに嫌なの? お母さんとは今は仲いいって、いってなかったっけ」
「はなれた場所で、電話ごしだから仲がいいんだよ」
 なるほど。
「会うとケンカする?」
「しない。ギクシャクする」
「わあ」
 それは精神的にキツイ。
 社交的な彼でもそんなことあるんだ。でも将来なにがあるかわからないし、親が元気な内に会っておいた方がいいんじゃないかな。
「二人きりにならなきゃいいんじゃない? 顔だけだしてすぐ帰るとか」
「……そーする。来週ちょっと行ってくる」
 彼のうつむいた横顔をなぐさめたくて、そのほおに軽く口づけた。すべすべだけど柔らかくない。
「無理はしないでね」
 高橋さんが笑った。
「もっとやって」
 なぬ。
 これ以上は届かないので、腕をほどいて中腰になる。彼の肩に手をおいて、その前髪をかきわけた。おでこに唇を落とすと、くすぐったそうな声。
「口は? 口にはしてくれないの?」
 ……しかたないな。
 熱くなりつつある顔を近づけて、止まる。
「なんで目とじないの」
「見たいから」
 その肉食獣みたいな目で見られてるとはずかしくて、できることもできなくなるからやめて欲しい。なれたつもりだったけど、やっぱりまだ落ちつかない。片手で彼の目をかくして一瞬キスすると、待ちかまえたように抱きよせられた。
「あ」
 熱い唇がふれたかと思うと、舌が入ってきて口の中をなでる。ほおの内側や歯列をゆっくり味わうようになぞり、舌に絡みついてくる。
「……っ」
 同時にうなじや背筋を手のひらでなでられて身体がびくりとはね、なにも考えられなくなる。吸われたり甘噛みされたりして酸欠になり、はあはあいってしまっていたら、唇をはなして高橋さんが熱っぽく微笑んだ。
「ひなってむちゃくちゃキスに弱いよな。気持ちいい?」
 そんな言い方されると照れがきてまた反発したくなるが、自覚はある。
 強引なのは怖いしドキドキしてしまうけど、優しく優しくちゅーってされると「幸せー」っていうのと「気もちいー」っていうのでとろんとしてしまって、もうなんにも抵抗できなくなってしまう。
 私は無言でうなずいた。
 一週間後の夜。
 時計の音だけが大きくひびく、静まり返った室内。
 受験も近いので机にむかって勉強していたら、高橋さんから電話がかかってきた。
「高橋さん?」
 確か実家に帰るといっていたはずだけど。
『ひな……だけど』
 電波が届かない場所なのか、ノイズが酷い。それに後ろでネコがエサをねだるような、赤ん坊が泣いているような声が聞こえる。
『来週……か……から』
「ごめん、電波の状態が悪いみたいでよく聞こえ」
 反射的に背後をふり返る。
 いま部屋には私しかいないのに、フローリングの床に映っていた影が増えた気がしたのだ。まるで背後にだれかが立っていたかのように。けれど、辺りを見渡してもなにも異常はない。おそるおそるスマホを耳にもどすと、すでに電話は切れていた。
 それから電話をかけ直してもメールを送っても返事はこず、家庭教師の会社から「高橋が風邪を引いたそうなので、申し訳ないが一週間休ませて欲しい」とだけ連絡がきた。いつも遅くても一時間くらいで返事をくれるし、毎日メールか電話のどちらかは欠かさなかったのにそれもない。またインフルエンザでスマホをさわれないくらい寝こんでいるんだろうか。この前の電話や影が妙に気にかかる。
 なんだかとても心細くなって、しばらく寝つけない日々が続いた。
 マンションをたずねてもだれも出ない。彼の実家をたずねたくても、住所も電話番号も知らない。このまま待つしかできないんだろうか。ずっと一緒にいたのに、連絡がこないだけで簡単に関係が切れてしまう。人間関係ってこんなにもろいんだと考えて、怖くなった。
 いてもたってもいられなくて、彼と共通の友人――斉藤さんに電話をかけた。