24.ネコ
数日前に高橋さんから電話がかかってきて、変な切れ方をした。
それからずっと音信不通で、家庭教師の会社から「風邪で1週間休む」とだけ連絡がきた。
彼はそんなに酷い風邪なのか、大丈夫なのかが知りたい。
そう斉藤さんに話すと、回線ごしにため息が聞こえた。
『1週間くらいすぐだろ。ほっといて勉強しろ受験生』
「勉強はしてるけど、なんか不安で落ちつかなくて」
今も机の上に教科書や赤本を広げているが、ほとんど集中できていない。
次のカテキョは火曜日だから正確には8日間だし、あと4日もなんて長すぎる。メールの1通でもあれば落ちつけるのだが、音信不通なんて初めてで怖い。
『……』
「斉藤さん?」
『ネコ?』
「えっ」
急な話題にドキリとした。
高橋さんの電話からネコの声がしたことは話していないのに。
ブツリ、と通話が切れる。
「斉藤さん?」
かけ直すと、「ザァァァァァァ」と耳ざわりなノイズだけが響いてくる。
「斉藤さん!? もしもし、大丈夫!?」
返事はない。
背中に冷水をかけられた気がした。
「……どうしよう」
頭がまっ白になって、うろうろしてからベッドにすわる。
ギ、ときしむ音が室内にひびいた。
窓から差しこむ夕陽の光と影で、壁に奇妙な模様ができていた。赤みがかったオレンジと黒のコントラストは、どこか血を連想させる。
不意に、床に置いていた通学バッグが「カサカサカサッ」と小きざみに震える。
おどろいて反射的に後ずさった。
ベッドの上に避難してからバッグを見つめると、また「カサカサッ」とゆれた。わずかにへこんだり膨らんだりしている。
虫かなにかが入りこんで、暴れているのかもしれない。
そう考えると恐怖が少しやわらいだ。
そろりそろりと近づき、バッグをひっくり返す。
筆箱や教科書、ノートや定期券などがドサドサ床に広がった。虫がまぎれていないか注意していたけれど、それらしいものはどこにもいない。
空になったバッグの中をのぞきこもうとして、先に壁のスイッチに手をのばす。室内はだんだん灰色に染まり、暗くなってきている。電気をつけないとどうせ見れないだろう。
でも、電気はつかなかった。
カチカチカチカチと、何度おしてもつかない。あの夏の夜を思い出し、逃げ出したくてたまらなくなってくる。でもまたドアが開かなかったら怖いので、私はそっと、バッグの中を上からのぞきこんだ。
なにも入っていない……とは思うが、影になっていてよくわからない。
バッグをもち上げようとして、なにかを踏んづけた。ばらまいた教科書の一つだ。理解すると同時に転んでしまい、床にしゃがみこむ。立ち上がろうと近くの床に手をのばしたとたん。
わしゃり。
気味の悪い感触がした。
手のひらの下によくわからない”なにか”がある。それは髪の毛のようにたくさんの糸状で、円形に盛り上がっている。
人の頭の感触にそっくりだ。
高さはゴミ箱と同じくらい。つまり、床から生首が生えているような高さ。それを理解して震えが走った。軽く右下をふりむけば正体がハッキリするけれど、見たくない。手の下のそれから、ものすごく見られている気がするのだ。手をはなしてしまいたいけれど、今はなしたら噛みつかれそうで身動きできない。
人形かオモチャかもしれない、と他の可能性を考える。
こんなオモチャ置いてない。マスコットキャラのぬいぐるみならあるが、人形は怖いから1つも置いていない。こんな人間の頭そっくりの感触がするようなものなんて、室内にない。ましてや床にあるはずがない。
「た」
高橋さん。お姉ちゃん。お母さん。
助けを呼びたいのに声が出ない。
泣きそうになっていたら、”なにか”がずるり、ずるり、と少しずつのびた。いや、生首から下の部分が出てきたのかもしれない。それはもう床にへたりこんだままの私より高くなった。頭をつかんでいられなくなり、私の手がそれからずり落ちる。
かすかに息づかいが聞こえる。
なのに足音はしない。
すう……とゆっくり、ゆっくりと背後から近づいてきて、私の右で止まる。そして、おじぎをするように深く腰を曲げて、こちらの顔をのぞきこんできた。
20歳前後の女性で、茶髪のショートヘア。暗くやつれて、見るなり顔をそむけたくなるほど恨みがましく、攻撃的な目つきをしている。
彼女はぼそぼそとなにかをつぶやいたが、聞きとれなかった。
◆
気絶してしまっていたらしい。
目を開けると電気がついていて、自分の他にはなにもいなかった。床には通学バッグと教科書が散乱している。
時刻は夜の7時まえ。
1時間くらい倒れていたようで、全身にびっしょりと汗をかいてしまっている。
あの女の人の顔。ふれてしまった他人の頭の感触、生々しい息づかい。すべてが脳裏に焼きついてはなれない。
背中が心細くて、壁に背をつけて呼吸を整えた。
前に海で見た女の子もそうだったけど。普通の人と変わらないほどハッキリして、まったく透けていないなんて反則だと思う。知らない女の人がとつぜん自分の部屋にいるなんて、幽霊じゃなくても怖い。
そもそも私は霊感がないと思っていたし、明里のそばにいるときか鏡ごしくらいにしか霊を見たことがなかったのに。どうして見えてしまったんだろう。
ティッシュで涙をふきながら考えていたら、持ち歩いていたお守りがなくなっていることに気づいた。
「あれ?」
いつもポケットに入れているし、ついさっきまであったはずなのに。
どうしてだろうと辺りを探していたら、スマホの着信音がひびいた。
『大丈夫か?』
斉藤さん。
独特のハスキーボイスを聞いて恐怖が一気にやわらぎ、ベッドの上で身をのり出した。
「斉藤さんこそ大丈夫?」
『ああ、まあ。今から出てこれるか?』
「え? 大丈夫だけど、どこに行けばいい?」
我が家には門限が存在しない。
いわれなくても夕方には帰るし、これといって悪い遊びもしないので、たまのワガママならと大抵のことは二つ返事で許可してくれる。むしろ、高橋さんと毎週末遊ぶようになるまでは「もっと外へ出かけなさい! 引きこもりになるよ! お友達作ってきなさい」といわれていたくらいだ。「友達と遊んでくる」というと、とても喜ばれる。明里や沙也とは遊んでいたんだけど、それ以外は家にこもりがちなのを心配されていたらしい。
『10分後に、家の前の曲がり角』
家族に一言告げて外へ出ると、ちょうど彼が来たところだった。
その姿を見て、ちょうどズボンをはいていて良かったとこっそり思う。
斉藤さんはでっかくてゴツイ大型バイクにのっていた。
バイク自体は派手な色じゃないし、特に装飾もされていないけどけっこうな威圧感がある。運転手と合わせるとすさまじい迫力だ。似合うけど怖い。
「斉藤さん」
近よると、ホコリを払うような感じで軽く背中をたたかれた。
ヘルメットをわたされ、後ろにのるよううながされる。
……どーやってのるの、これ。座席高いよ斉藤さん足長すぎるよ。
よじ登ろうと奮闘していたらひょいと持ち上げられ、すとんと座席におろされる。
「ゆっくり走るけど、落ちるなよ」
意外なほどの安全運転で、すごい安心感だった。
ついたのは近場のカラオケ。
今日は客足が少ないようで、駐車場はまばらにうまっている。
「ここなら話しやすいだろ」
確かに、いまの時間ファミレスだと人がいっぱいいて霊の話とかはできそうにないかも。むしろ立ち話かと思ってたけど。
「ごめん、ちょっと話すだけだと思ってたから財布もってきてないんだけど……」
「おまえな。ガキと出かけてガキに金ださせるわけねーだろ。まさか高橋のアホはださせてんのか?」
「いや、いつもおごってもらってるけど……斉藤さんってなにげに紳士だよね」
見た目とのギャップがすごい。
「普通だ。むしろ常識だ」
個室に入り、お言葉に甘えて夕飯を頼んでそれが届いたあと。
私は気になっていたことをたずねた。
「斉藤さん、首のそれって」
外では暗くてわからなかったけれど、灯りの下だと服の合間にうっすらそれが見える。
「……やられた」
彼の首には、両手で強くしめられたような赤黒いあざが浮かんでいた。
「つか、おまえにも同じのついてるからな」
いわれて、背中がゾッとした。
私との電話中、斉藤さんは高橋さんを霊視してみたらしい。
本人がその場にいなくても顔見知りならすぐできるそうなのだが。そのときはなぜか、妨害するようにネコの霊がわらわらとよってきた。
「だれかの使役霊だった」
「使役って、ネコの霊を飼ってるの?」
「ちがう。犬神って知ってるか。犬の気が狂うほどむごたらしく殺して、その恨みを利用して作るやつ。それをどっかの馬鹿がマネして自己流に作ったんだ。ネコで」
ペットの死後もはなれがたくて飼っているのかと思っていたら、予想外に不快な話で言葉がでない。
霊視をさまたげてネコたちが消えたあと、彼はいきなり背後から首を絞められたそうだ。顔は見ていないが、女だったと彼はいう。それでとっさに追いはらったものの、あれはまだ成仏していない。高橋さんに憑いていた霊が霊視されて斉藤さんに気づき、一時的に彼の所へ来ただけ。だから、また高橋さんに憑いているだろうという事だった。
ネコたちと女と、2種類の霊に憑かれているなんて。
「高橋さんは大丈夫なの?」
実家に帰っただけなのに、どうしてそんな事になっているのか。
「あいつは慣れてるし、自分でなんとかする。……それよりおまえだ。しばらく高橋と連絡とるな。もしむこうから電話がかかってきても無視しろ。あいつからのはメールも開くな」
斉藤さんは普段と変わらない様子で告げた。