6.クマ
休日の昼間。
家でごろごろとテレビを観ていたら、
「高橋さんってたまにすごいクマ作ってるけど、なにか夜遊びでもしてるの?」
母にそんなことをいわれて驚いた。
「え? クマなんかあったっけ」
母があんぐりと口を開ける。
「信じられない……あんた、毎週2回も会ってるくせに」
「そんなしげしげ見ないから」
綺麗な顔だとは思うけれど。
人見知りのせいか、私は人の目を見て話すのが苦手だ。目が合ったままだと緊張してしまってすぐそらす。あるいは、相手が目をそらしている間にちらっと顔を見る。この悪癖は学校の教師や沙也にさんざん注意されているのでさすがに自分でもまずいと思い、最近ようやく会話中に何回か目を合わせられるようになってきたところだ。
「バイトかけ持ちしてるとか、大学がいそがしいんじゃない?」
「ああ、それはありそう」
高橋さんは髪を染めていないし、口を開かなければ真面目そうに見える。性格も器用というか、世渡り上手なタイプだ。
そのおかげもあって、母はそれだけで納得したようだった。
今度クマがあるか見てみよう、と思っていたのに、いつの間にかすっかり忘れて冬を迎えたころ。
高橋さんが二週間も家庭教師を休んだ。
インフルエンザが長引いているらしい。
家庭教師の会社から代理の教師を提案されたが、「じきに治るだろうし、まだ受験までだいぶ時間もあるので」と丁重に辞退した。彼以外の家庭教師なんて考えられない。
部屋で一人勉強していたら寂しくなって、メールを送ってみた。
「大丈夫? お見舞い行こうか?」
少し前にインフルエンザの予防接種を受けたし、たぶんうつらないだろう。
返信メールには住所と最寄駅だけが書かれていた。
来いということだろうか。
「じゃあ、ちょうど明日休みだから明日の昼ごろ行くよ。なにか欲しいものある?」
「びわゼリー」
と珍しく短い返信があった。
そこは高そうなマンションだった。
駅からも近くて清潔そうで、「将来ひとり暮らしするならこういう所がいいな」なんて考えながら玄関に近づくと、ドブと排泄物が混ざったような異臭が鼻をついた。
「うっ?」
生ゴミか動物の死体でもあるのかと思った。
でも、それらしい物は見当たらない。
今たまたまゴミがないだけで、普段は玄関をゴミ捨て場にしているのかと疑いたくなる匂いだった。
綺麗な所なのにもったいない。
オートロックを解除してもらってガラス張りの玄関に入り、エレベーターへのりこむ。
新しくはないが清潔なその密室で10階のボタンを押す直前、無意識に背後をふり返った。だれかが後ろにいたと思ったのだが、別にだれものっていない。影で黒くそまったガラスが鏡と化し、私の後ろ姿だけが映っている。
気をとり直してボタンを押した。
部屋の前でインターホンを鳴らすと、フラフラの高橋さんが出てきた。
「よ。いらっしゃい」
額に冷えピタをはっているが、それがなくても一目で病人だとわかる。
「……高橋さん、病院行った? 顔が青色とおりこして緑がかっててキモイんだけど」
「キモイ!? ……三日寝てないからな」
ショックを受けたらしく、壁にかかった鏡をのぞきこむ。
「インフルエンザかかってる時に三日徹夜とか、死亡フラグにも程があると思うよ」
「そうなんだけどなー……不眠症なんだ」
小さく苦笑した横顔を、つい凝視してしまった。
いつもは処方してもらった睡眠薬を飲んで寝ているが、たまに薬が切れた時などはこうやって寝不足になり、どんなに疲れていても眠れないのだと彼はいう。
薬をもらいに行かなければと思っていた矢先にインフルエンザにかかり、しばらくはインフルエンザ用の薬で眠れていたのだが、それも切れてしまった。
「じゃ、また病院行って薬もらいに行かなきゃ駄目じゃん」
進められるままクッションにすわり、買ってきたびわゼリーや栄養ドリンクなどをわたす。
部屋の中はわりと片づいていて、せんとくんクッションなどネタ系グッズがぽつぽつ置かれている。
さっそくゼリーを口にしながら、高橋さんがつぶやいた。
「面倒くさくってなー。だから今日ひなが来てくれて助かった」
「市販の風邪薬で、眠くなるやつ買ってこようか?」
「いるだけでいいよ。だれかいれば眠れる」
「……わかった」
その言葉どおり、高橋さんはゼリーを食べ終えると床で眠ってしまった。
目の下には濃いクマが浮かんでいるし、少しやせたような気がする。
いつも笑っているから人生楽しくて仕方ないのかと思っていたけれど、そうでもないようだ。
彼に毛布をかけて冷えピタをとりかえて部屋を換気して、それでやる事がなくなってしまった。
お見舞いの品をわたしてすぐ帰るつもりだったけれど、人がいた方が眠れるというのならもう少し長居した方がいいんだろうか。
迷ったあげくに台所を借りて、おかゆとゼリーを作ってみた。
味見をして「もう少し料理の勉強しておくんだった」と軽く後悔したが、まあ……食べられなくはないし。ゼリーは普通の味だからOKということにしておこう。
外はまだ明るかったので、あとは部屋の本棚にあった漫画を読んでいた。
夕方が近づいてきたころ。
ちょうど玄関の方だろうか。ドオン、と窓の外で重たいものが落ちた音がした。
なんだろうと顔を上げ、ついでにそろそろ帰ろうと立ち上がったとき、急に身体が引きつった。
動かそうとすると激痛が走る。
足がこむら返りになった時みたいに全身が引きつって、息苦しい。
けいれん?
それとも、これが金縛りってやつだろうか。立ったままなるっておかしくない? 何で?
背中に氷がはりついたみたいに寒くて、だらだら嫌な汗が出る。
するっ、と音がした。
スカートを引きずるみたいな、衣ずれの音。
それが背後から聞こえて、だんだん近づいてくる。高橋さんは目の前で眠っている。部屋には他にだれもいないはずだ。靴もなかったし、ひとり暮らしだといっていたし……それにこんな風にハアハアいいながら近づいてくる人なんて、生きた人間でも嫌すぎる。
「……っ」
高橋さん。
高橋さん、なんとかして。
助けを求めようとするが、声が出ない。
口は動くのに声がかすれて、まったく音が出なかった。
だんだん息苦しくなってくる。
ぽたぽたっ、と液体がしたたる音がした。
「さわんな」
不意に高橋さんが低くうなった。
悪夢から覚めたように唐突に息ができるようになる。やっと体が動いて、私はしばらくゼーハーゼーハーと深呼吸を繰り返した。
室内には私たち以外だれもいない。
液体が落ちたあたりの床を調べても、ぬれた形跡は見当たらなかった。
息を整えてふり返ると、高橋さんはすでに身をおこし、上着を羽織っていた。
「送ってく」
「いいよ、病人だし。ていうか今の」
「平気平気。寝たら調子よくなった。熱も下がったし」
たしかに顔色はだいぶマシになった。
だが、まだまだ安静にしていた方がいい。
「こっちこそ大丈夫だって」
「じゃあ玄関まで」
二度目に通った玄関は血の匂いがした。
味がしてきそうなほど甘ったるい、鉄の匂い。
辺りに匂いの元はない。通行人も気にしていないようだった。
「絶対ふり返るなよ。少しより道して帰れ」
そういって高橋さんに背中を押される。
とっさにふり返りそうになって、そのまま小走りになった。
「う、うん。じゃあまた」
あそこは幽霊マンションかもしれない、と帰りの電車でゆられながら考えた。
高橋さんの部屋もおかしかったが、よく考えるとエレベーターで気づくべきだった。
ふり返ってガラスを見たなら、ガラスに映った自分と目が合わなければおかしい。どうして自分の後頭部が映っていたのか。
ぞっと悪寒が走って、軽く首をふった。
これ以上考えるのはよそう。あそこにはもう行かない。それでいい。
駅まで眠ろうと座席で目を閉じていたら、近くにいた私服の女子高生が、
「なんか血の匂いしない?」
とヒソヒソ話を始めた。
高橋さんの言葉が脳裏に浮かぶ。
ふつう、暗くなる前にまっすぐ帰れといわないか。以前もあまり夜道を歩くなと忠告してくれた。
なのにどうして今日は「より道して帰れ」といったのか。ふり返ったらどうなるのか。
血の匂いの源が私についてきているから、それをどこかでまいてから帰れということ?
進行方向とはちがう車窓の外を目で追いそうになって、とっさにうつむく。
いたたまれなくなって車両を移り、駅からは本屋によって帰った。
◆
その次の週。
高橋さんが家庭教師に復帰した。
クマは消えているし、血色もいい。
「治ったんだ。良かったね」
「ああ、この前はありがと。ゼリー美味しかった」
おかゆの味については聞かないでおこう。
お礼にもらったミスドのドーナッツを机の前でかじっていたら、この前の説明をしてくれた。
あのマンションは半年に1度くらい、飛びおり自殺がおこるらしい。
今まで5人くらい飛びおりたのだが、みんななぜか10階のわたり廊下から玄関の前へ落ちていくのだそうだ。
怪奇現象にあう人も多く、窓の外でだれかが飛びおりたのを目撃してあわてて下をのぞくとだれもいなかったり、エレベーターの中でミンチみたいに潰れた肉塊を見たり、部屋で金縛りにあったりするので空室も多い。
そんなわけで家賃が安いので住んでいるらしい。
特に高橋さんの部屋は去年飛びおりた人が住んでいた部屋で、クローゼットから骨や脳みそがはみ出た女が出てきたり、勝手にシャワーから水が出たり、夜中に首をしめられたりする。
普段はそういう悪さをしないように押さえこめるので時間をかけて浄化していたが、この前は高橋さんが弱っていたので出てきてしまったそうだ。
「……行くんじゃなかった」
高橋さんが笑う。
「また来いよ。もう部屋には出ないから」
「成仏したの?」
「いや、ムカついたから消した。だから他のはともかく、俺の部屋にはもう出ない」
「他の場所には出るの? 玄関とか」
「でるよ」
「じゃあ行かない」
いうと、高橋さんが不服そう顔をした。
「友達みんなそういうんだよなー」
引っ越せばいいのに。