その50


「どうしたんですか?」
 声をかけてもユルドゥズは反応しない。
 しゃがみこんだままうつむき、己の頭や顔をガリガリとかきむしり続けている。再生能力が高いのですぐに治るが、爪や手、顔がどんどん血に染まっていくので見ていて痛々しい。
 こんなとき、レンヤやヨウなら放っておいても自力で立ち直る。むしろ下手に声をかけると彼らの誇りを傷つけるので、少し立ち直ってから声をかける。
 だがユルドゥズは放っておいてはいけない気がした。いつまでも底なし沼でもがき続けているような、妙な危うさがあるのだ。
「ユルドゥズ」
 両手をつかむと、彼はようやく動きを止めた。
 うつむいた顔は白髪でかくれている。
 聞こえてきた声はかすれていて、夢から覚めたばかりのように呆然としていた。
「……忘れて、いました」
「なにをですか?」
「アシュレイは死んだのでした」
 ナギはなにもいえない。
 思い出さないほうが幸せだったろうにと同情すべきか、正気に返ったことを喜ぶべきか。慰めるにしても気休めの言葉しか浮かばない。
 それよりはと、彼の隣に腰を下ろした。
 脱力したようにユルドゥズがもたれかかってきたかと思うと、そのまま抱きしめられて硬直する。
 イヤなわけじゃない。むしろ、美形さんにこんなことされたらドキドキしてしまって困るのだ。
 抵抗すべきかどうか迷ったが、そのまま大人しく身を任せる。
 彼は落ちこんでいるだけで他意はない。男の子と間違えていたくらいだし、もう少しの間アシュレイの代わりでいてあげよう。
 ……わかっていてもかなりはずかしいけれど。
 どれくらい経ったんだろう。
「いつまでそうしてるつもり?」
 やがて、オオゲジサマの声がした。
 振り返ろうとするがユルドゥズにがっちりつかまれていて身動きできない。
「哀れに思わないでもないけどね。そろそろ返せ」
 視界の隅で周囲の木々がざわざわとゆれる。
 背筋がヒヤリとしてきたので「はなしてください」と告げると、彼はあっさり両手をといた。代わりに切なげな声でささやく。
「……すみません」
 元々表情に乏しいせいか、顔にはさほど感情が出ていない。
 不器用というか、世渡り下手というか。おそらく彼なりに精一杯の友好表現なのだろう。
 もしも彼がもう少し器用な性格だったなら、例え死神と呼ばれていようともっと味方がいただろうにとおしく思う。
 このキレイな顔をもっと活用すればたいていの女性は籠絡できそうなのに……。
 だが、こんなユルドゥズだからこそほうっておけないのだ。

◆

 その後。
 豊かな水源と呪い師を手に入れた砂漠の町は活気をとりもどしていく。繁栄はしばらく続き、住人たちは幸せに暮らした。
 ぴったり100年経つまでは。
 ちょうど100年後にオアシスの水源は枯れてしまう。住人たちは再び飢えと乾きに悩まされることになるのだが、その頃の彼らには水を授けてくれた呪い師の伝説が語り継がれていた。
 過去二度にわたり助けてくれた呪い師。
 死神が怖くなって町にすみついたあの呪い師はとうに寿命で亡くなっていたが、3人めの呪い師がきっと助けに来てくれると信じて。
 新天地を目指して旅立つこともせず、新たな水源を探すこともせず。
 彼らはただただずっと待ち続けて、全滅した。

◆

 竜王一行はさびれた山岳地帯にいた。
 大きな岩と不毛の大地。単調な光景が続く地に、いくつかの大きな天幕が張られている。天幕の周りには多数の兵士たちと馬が待機していた。
 死神に領地を襲われ、かろうじて生き残った三カ国ジャクセン、ロトロフ、トーリスに招かれたのだ。呼んでおいてなぜ国内ではなくこんな僻地なのかは、各国の使者を見ればわかる。
 侮蔑、恐怖、憤慨がわかりやすく顔に出ている。
 竜なんてバケモノを国内に招いて暴れられてはたまらないとでも思ったのだろう。心を読むまでもない。外交の場であっさり腹の中を見透かされる程度。殺されても構わない下っぱばかりを選んで送ってきたと推測される。それでもやはり怖いと見えて、竜王と使者たちのイスは七メートルほどはなれていた。
「竜族は人間と敵対するつもりか」
「その気がないのなら死神をどうにかしろ」
「死神から受けた被害について謝罪と賠償を請求する」
 彼らの質問と要求はこんなところだ。
 困ったものだと竜王は内心で嘆息する。
 本来、竜と人とは関わりを持たない。個人レベルの関わりがたまにあるくらいで、このような政治的な外交はないものなのだ。
 死神が封印される前には少しあったらしいが、それも特例といえる。
 要するに、そんな難しい要求されても困る。
――こいつら全員殺して、各国に生首を送り返してやりましょう。
 使者の態度にブチキレ寸前のドロシーがテレパシーを送ってきた。
――やめろ。それでは人間との全面戦争を宣言するようなものだろうが。
 竜王がなだめると、若じいやことチェンロンも脳内会議に参戦してくる。
――まあ、彼らのいうことももっともです。その気になれば人間などいつでも滅ぼせるのですから、少しは下手に出てやりましょう。
 彼の言葉を聞いて、竜王はかすかに眉をひそめた。
――……どうして竜族は基本的にみんな人間を見下す傾向があるんだ。なぜか我が見下されたようで気分が悪い。
 いつだったか、臣下の一人がいっていた言葉が脳裏に浮かぶ。
「容姿、基礎体力、魔力、寿命。すべてにおいてケタ違いに優れている我々が、どうして劣った生き物に敬意を払う必要があるのですか?」
 優劣だけがすべてではなかろうに。
 だが、竜の世界で弱者は生き残れない。生存競争を勝ち抜いてきた彼らがそういった考えを持つのも、ある意味しかたないのかもしれない。
――竜王さまを見下すだなんてとんでもない! こんなに可愛いのに!
――竜王さまを見下すだなんてありえません! 息子にしたいくらいですぞ!
――そうかありがとう。
 テレパシーでハモった二人の言葉を聞き流していると、実際の言葉で使者が話しかけてきた。
「あのう……へ、返答を願います」
 ロトロフの使者だ。
 彼は終始こちらを腹を空かせた肉食獣のようにあつかい、ビクビクしている。かつて竜は神獣とも呼ばれ、敬われていたというのに、酷いものだ。
 脳内会議に没頭するあまり不機嫌な顔でむっつりしていた竜王はようやく口を開く。
「我々は人と敵対するつもりはない」
 その一言に使者たちがほっと顔を緩ませる。
「死神は我々が責任をもって退治する。あなた達は情報だけ提供してくれればいい。謝罪も望むだけしよう。賠償については具体的な金額を出して後日請求してくれ。確かに被害相応のものであると確認できれば払う」
 突然トーリスの使者が荒々しく立ち上がった。
「ケダモノが偉そうな口を……どれだけ仲間が死んだと思ってやがる。謝罪は望むだけといったな。悪いと思うなら、今この場で我々にも謝罪してもらおうか!」
 直後、鼓膜が痛くなるような破裂音がひびく。
 激情に駆られて使者たちを亡き者にしようとした従者を、竜王がしっぽでぶったたいたのだ。
 チェンロンが地面に5メートルほど埋まり、ドロシーが天幕をつき破って外へふっ飛んでいった。ようやく使者たちが気づき、わけもわからず悲鳴を上げて後ずさる。
「ひいぃ……!」
「ば、バケモノ! 貴様やはり死神の味方か!」
――すまん。我々が永世中立を保つためにはここで彼らに敵意がないことを示さなければならんのでな。
 ひそかに彼らに謝罪し、竜王は使者たちへ歩みよる。
 そして、更に悲鳴をあげられるより先に片膝をついた。
「我々の同族が迷惑をかけてすまなかった」
 ひゅっと息を飲む音がする。
 ロトロフの使者は天幕の出入り口まで逃げたまま、驚愕に目を見開いている。ジャクセンの使者は突き放したような冷たい眼差しで静かにこちらを見つめ返す。トーリスは顔にびっしりと脂汗を浮かべていたが、ニヤリと笑った。
「それだけか? 誠意を見せろ」
 竜王の頭に足をのせようと、己の足を高く掲げる。
 それを、ジャクセンの使者が払いのけた。
「あまり人間の恥を晒すな。国の名に泥を塗るぞ」
 ジャクセンは軍事力が高く、物資も豊富。だがトーリスはジャクセンからの支援に依存している弱小国家だ。この場に来たのも竜族に意見するためというより、ジャクセンに媚を売るためだろう。
 トーリスの使者は軽く舌打ちして退いた。
 仏頂面を通りこして敵意すらうかがえる表情で、ジャクセンが跪いたままの竜王へ手をさし出す。
「竜族の意向は確かにうかがいました。今後ともよろしくお願いします」
「……あくまで死神討伐の間だが、よろしく頼む」
 その手を借りて立ち上がると、彼が冷笑した。
「正直なところ、見直したよ。竜族はもっと傲慢で人のことなど省みないものかと」
 もしかしすると生まれつきこういう顔なだけで、別にこちらを侮蔑しているわけではなかったのかもしれない。そう少し思ったが、やはり嘲笑されているような気もしてよくわからない。つかみどころのない男だ。
「我が謝罪するといったのだから、謝罪するのは当然だ」
 竜王が答えると、彼はなぜか笑っていた。
 やるべきことをすませ、使者たちと別れたあと。
 ドロシーは肩を震わせ、血の涙を流す。
「許せませんわ……竜王さまにあのようなことをさせて……死神め! 必ず地獄の底へたたきこんでやりますわ!」
 チェンロンも怒りの余り変化が解けかけ、皮膚にウロコが浮かび、角や牙が数本むき出しになっている。
「竜王さまが人間相手に膝をつくなど……死神め。八つ裂きにしても生ぬるい。万死に値する」
 竜王はそんな家来をありがたく思う反面、ちょっと引いていた。
「別に謝るくらいいいだろう。減るもんじゃあるまいし」
「減ります減ります矜持が傷つきますっ!」
「あなたは我々の頂点なのですぞ!? あなたの謝罪は我々がブタの足を舐めるにも等しい!」
「そんな料理あったな。綺麗に洗って味付けして焼くんだったか? 豚足って」
「話をそらさないで頂きたい!」
 三匹の元に「砂漠のオアシスに死神が現れた」という情報が届くのは、その数日後のことだった。