その59


「ところで魂って、私とうとう死んだんですか?」
「死んでないけど、あまり良くはない状態かな」
 牢に正座してたずねると、オオゲジサマは長いまつ毛をゆらして答えた。つくづく美少女然とした中性的な姿だが、つい見惚れてしまいそうなくらいサマになっている。
「どういうことですか?」
 主いわく、ナギは今までにも何度か幽体離脱しているという。
 肉体から魂がぬける状態をそう呼ぶらしい。魔術師や呪い師にはたまにあるそうだが、そうすると今も、草原では行き倒れたナギの肉体が転がっていることになる。
 ちょうどその考えを裏づけるように彼が補足した。
「寝ぼけて少しのあいだ幽体離脱したり、優れた呪い師が意識的に幽体離脱したりするのは問題ないんだけど、今のナギは弱って幽体離脱してるからちょっとマズイ」
 そんな状態だから、魂だけを呼ぶことができたのだという。
「よーするに死にかけてるんですね」
 牢を脱走して走っていたら倒れたので、そのせいかもしれないとナギが話すと、主もうなずく。
「一時的な疲労で倒れただけみたいだし、すぐ体にもどって休めば大丈夫だよ」
「どうやれば……」
 体にもどろうにも、ここの位置すらよくわからない。
「夢の中でおきようとする感じ」
 それならば得意だ。
 ゲジ国が滅亡した直後は悪夢ばかり見ていたから、なれている。
「じゃあ、さっさとオオゲジサマを助けてから体にもどりますね」
「……」
 さっきまでのほほんとしていたのに、主は複雑そうな顔でこちらを見つめた。
「なんですかその顔は」
「ここ、つまんない」
 それはそうだろう。牢屋なのだから。
 なにをいいたいのかと思ったら、少年はすねたようにつぶやく。
「君はいつでも幽体離脱できるわけじゃないし、距離もはなれてる。またしばらく会えなくなるのに、僕を助けたらすぐに帰っちゃうの?」
 なにこの主めんどくさい。
 早く帰れといった直後に早く帰っちゃ嫌だとはこれいかに。
 ここぞとばかりにかわいらしい顔で「かまって!」と主張してくる人外に、ナギはほんの少しほおを引きつらせた。
「おたがい死にかけてるのに、そんな場合じゃないでしょーが」
 食べたければ食べてもよいとはいったが、基本まだまだ生きていたいので無駄死にはゴメンである。
「少し話すくらいの時間はあるよ」
 閉じこめられてよほど退屈だったらしい。
「……わかりました。ちょっと話してから帰りますから」
 ナギが折れると、標本にされた昆虫よろしくはりつけ状態の美少年は満面の笑みを浮かべた。怖い。
「なんだか余裕ですけど……もしかして、もう逃げる方法思いついてるんですか?」
「まだ試してないのがいくつかある、程度だけどね」
 右手に血がついているはずだからそれを食べさせてと彼はいう。
「ああ、お腹すいてるんですね」
「剣にさわらないように気をつけて」
 おそるおそる近づくと、いわれたとおり彼の右手には血がこびりついていた。まだ完全には乾いておらず、どろりとしている。傷口とははなれているので、返り血だろう。
 いまナギの手は半透明でキレイな状態だ。服はゲジで寝るときに着ていたような、白い浴衣。気絶する前はべっとり血だらけだったはずなのだが、不思議なものだ。もしや額には白い三角のアレが巻かれているんじゃなかろうか。
 この状態で血にさわれるのかと疑問だったが、案外あっさり指に血がつく。そういえば、いつぞやは夢の中でパスカルのために地図や手紙を書いたりしたし、意識すれば他の物もさわれるのかもしれない。
 血がちょっと気持ち悪いのを我慢しながらオオゲジサマをふり返ると、彼はヒナ鳥よろしく口をあける。
 そこでようやく、ナギは状況を把握した。
 指で直に血をなめさせるって、ものすごくはずかしい行為なのでは?
「はーやーくー」
 オオゲジサマが無邪気に催促する。
 ナギは肉体もないのにだらだらと冷や汗を流した。なぜか顔が熱くてしかたない。
「な、なにか代わりになりそうなのは……」
 とっさに辺りを探して、足元に散らばる骨を見つける。死体にふれるのは少し抵抗があるが、指をなめられるよりマシだ。羞恥心的な意味で。
「あ、その骨も危ないからさわらないように」
「えっ」
 ならばとばかりにナギは懇願する。
「オオゲジサマ、ウサギに化けてくれませんか? ……いえ、このさいゲジゲジでもいいです」
 普段なら二つ返事できいてくれるのに、オオゲジサマはきょとんとして「ヤダ」と答えた。
「なに照れてんの? こんなの前にもやったじゃん」
 ナギがすりむいた時に傷口をなめられたことならあるが、アレとはなんかちがう気がする。
 人外の姿をしていればまったく気にならないのに、どうしてこんな時に限って少年の姿をしているのか。
 葛藤しながら黙りこんでいたら、オオゲジサマが悲しそうに眉を下げる。
「僕にさわられるの嫌なんだ」
「ち、ちがいます!」
 もーどうにでもなれ。
 ナギはヤケになって血まみれの手を主の口元へつき出した。
 オオゲジサマはこちらを見つめたまま小さく笑い、ナギの指に舌をはわせる。つう、と生温かい感触がするのがくすぐったくて、つい唇をかむ。
 彼ははちみつでもなめるみたいにして血をなめ続けている。つり上がり気味の大きな黒い瞳は甘く弧を描いているのに、好物を喰らうときの肉食獣のようで少し怖く、美しい。手や指をなめては口づけ、口づけてはなめをくり返すその姿は妙になまめかしく、見ていられない。顔から火が出そうになって、たまらず顔をそむけた。
 それが気に入らなかったのか、偶然か。
 ほぼ同時に主がナギの指をくわえる。口の中でカプッと甘噛みされつつなめられて、ナギは声にならない悲鳴を上げた。
「……ッ」
 いつまでやる気だと苦情を爆発させる寸前。
 オオゲジサマがナギの手を解放し、満ちたりた顔で笑んだ。
「……」
 怒りそびれてナギは意味もなく地面をべしべしとたたく。
 あれは虫。あれは虫。あれは虫。
 深く考えてはいけない。意識する必要なんてまったくないのだ。
 そんなことをしていたら、オオゲジサマの姿が陽炎のようにゆらめいた。
 黒髪が淡い水色に変わり、角、しっぽ、羽が生えていく。
「その姿は……」
 あの血は彼のものだったのか。
 ナギは無意識に眉をひそめ、距離をとった。どんなに綺麗でも、ユルドゥズを殺した彼の姿なんて見たいとも思わない。
 オオゲジサマはいつか会った竜族の少年に化けると、手に刺さった剣へ告げた。
「どけ」
 その声に反応したかのように、両手の剣がひとりでに動き出す。ずるり、ずるりと肉を斬り裂きながら少しずつぬけていき、やがて宙へ浮く。そして、ガランと音を立てて床へ落ちた。
 傷口から鮮血がふき出すが、主は眉一つ動かさない。胸をつらぬいたままの剣の柄を握ると、一気に引きぬいた。
 控えめに装飾された、だがとても高価そうなその大剣には血のシミ一つなく、生きているように淡い光を放っている。
「意外と大したことないな。自分の主人も見分けられないなんて」
 拍子ぬけしたようにオオゲジサマがいう。
「どういうことですか?」
「竜王以外がこの剣にさわると死ぬみたいだったから、竜王に化けてみたらあっさりぬけた」
 こんなこともあろうかと返り血をあびておいて良かった、と。
「はあ……あの人、竜王だったんですか。とりあえずオオゲジサマが逃げられそうで安心しました」
 普通の竜だと思っていたら王さまだったのにはおどろいた。それ以上に竜族の王さまなのにどうして同族のユルドゥズを守ってくれなかったんだろうと胸が痛む。
 だからユルドゥズが竜族を嫌っていたのか、ユルドゥズが竜族を嫌い、殺しまくったからこうなってしまったのかは謎だ。
「ナギ、遠いよ」
 オオゲジサマは剣を地面につき立て、こちらへ手招きする。
 ケガはすっかり治ったようだ。
「……私、その姿嫌いです」
 ナギがぽつりとつぶやくと、彼はカイコの成虫になった。
 大きな黒目に白くてふわふわな体毛。太い触覚はキツネの耳みたいだし、ちょこんとした手足もぱっと見かわいい。けれど、胴体や羽の部分はものすごく蛾っぽくて、虫嫌いにとっては大変気持ち悪い。……のだが、その気持ち悪さにほっとしてしまう辺り、重症かもしれない。竜王は除くが、最近うっかりするとオオゲジサマが人型をとっているだけでドキドキしてしまいそうになるので、気持ち悪い姿でいてくれる方が気楽でいいのだ。
 ようやくナギが近づいていくと、巨大カイコが声をかけてくる。
「ここ脱出したら、また二人だけで暮らそうよ」
「お断りします」
 つい、脊髄反射で答えていた。
 しかし危なかった。人型の時に同じセリフをいわれたら確実に恋と書いて変態と読む恐怖の落とし穴につき落とされていただろう。
「なんで!?」
 半泣きでカイコが問う。
 鱗粉が飛ぶので羽をバタつかせるのはよして欲しい。
「レンヤとヨウを見捨てる気ですか? 彼らもどこかに捕まっているかもしれないんですよ」
「えー……あいつら、砂漠で死んでなかったっけ?」
 こともなげにいわれた一言に、ナギはしばらく絶句した。
「だ……だれにやられたんですか!? 私が気絶してから、いったいなにがあったんですか!?」
 ナギを人質にとられてオオゲジサマが捕まったこと。
 竜王の部下たちが双子を倒し、瀕死の彼らを砂漠へ置きざりにしたこと。
 それらを聞き、ナギは神妙に土下座した。
「私が人質にとられたせいで捕まってしまってごめんなさい」
「うん。君は不死身じゃないんだから、無茶したらダメだよ」
 もふっとした手足がおでこをちょんとつついてくる。もふもふなのに虫だと抱きつく気になれないのが不思議だ。
「とりあえず合流して、双子を探しに行きましょう。瀕死なら、まだ生きているかもしれないし……」
「生きていたとしても、砂漠じゃすぐに砂で埋もれちゃうよ。それか水がなくて乾き死に」
「死体の一部でも発見するまではあきらめません」
「……しかたないね」
 オオゲジサマはガジガジと羽をかんで羽づくろいしながらいう。カイコには口がないはずなのだが、不便なのでつけたらしい。