その78
ある魔物がいた。
それは赤くぐんにゃんりしていて、顔も手足もない。おそろしく大きなヒル、あるいは血のかたまりに似ている。
よく見るとそれは一匹ではなく、同じような小さい魔物の集合体である。
小さな魚の群れが大きな魚のふりをするように、彼らもまたそうして集団で行動していた。
陽が沈み、赤くそまった空の中に溶けこみながら。ざわざわ、ざわざわと風にただよって進んでいく。
やがて、ジャクセンの国境近くへ入ったとき。
おいしそうな人間たちの気配に魔物たちは喜び、速度を早めようとした。
けれど。
グルルルルル・・・・。
そんなうなり声に気づいて、動きを止める。
彼らのいる空からはるか下の地面。深い森の木々の合間から、鋭い眼光がこちらを射抜くように見ていた。
自分たちよりもはるかに強い獣。
いまにも飛びかかってきそうな殺気に怖気づき、魔物たちはつかの間、大きな魔物のふりを忘れた。
それぞれ勝手にあちこちへ飛び上がり、パニックをおこしたハエの集団のごとく逃げまどう。
五秒後にはすべて、元きた方向へ消えさっていた。
それを見届けるためか、獣が木陰から姿をあらわす。
一歩すすむたびに軽く地面がゆれ、カギ爪の跡が残る。ゾウくらい大きな身体は金色の毛皮におおわれている。なめらかな毛皮が夕日で輝くさまは、見るものを魅了するほど美しい。背には少し赤みがかった金の翼があり、鳥と同じ仕草でたたまれている。緑の瞳は宝石をそのままはめこんだのかと問いたくなるほど澄んでいた。
口元からは二本の牙がちょろりとのぞく。
やがて。
魔物がさったと確認し終えたのだろう。ふさふさのしっぽをゆらりゆらりとゆらしながら、獣はふたたび森の奥へ入っていった。
◆
ジャクセン国のすみっこにある小さな寺院。
子どもたちがかけ回り、僧たちがつつましやかに暮らすそこに、まぶしい男がいた。
王族の地位を剥奪され、みずから頭をつるつるに丸めたヨーゼフである。
罪を悔いるためすすんでここへきたのだが、生来の性格はなかなか変わらない。尊大な態度とまばゆい頭部のおかげで、寺院の子どもたちから「えせ太陽」、「犯罪者」などと陰口をたたかれていた。
寺院内、大聖堂。
今日はミサの日だったので、寺院の長が子どもたちに経典を読み聞かせている。
「魔術師や呪い師は元々の力以外に悪魔や精霊、魔物との契約、薬などを使って術を行う。では、我々のような僧や神官はどうやって術を使うのかな?」
「神さまへの信仰心と、精霊からの加護!」
元気よく手を上げた子どもが答え、長が笑顔を見せる。
「そのとおりだ。では、我が国でもっとも偉大な神官の名前を答えろヨーゼフ」
不意打ちで声をかけられて、ヨーゼフは不機嫌そうに手を止める。
たった一人で大聖堂の雑巾がけをしている最中だったのである。午前中までに終わらせないと昼食が食べられない。岩みたいに硬いパンと味のしないスープでも、食べなければ体が動かない。
「ハミルトン一世だな。俺をだれだと思っている。この国の歴史くらい10歳のときにはすべて覚えていた」
ボロをまとってなお偉そうな物言いに、長がひるみそうになる。
「……だまれ! 今のお前はただの犯罪者だろうが!」
「そーだそーだ! 犯罪者のくせにえらそうなんだよおまえ!」
「ヨーゼフのくせに」
「えせ太陽のくせに」
「神獣さまに謝れよ!」
子どもたちにまで口々にののしられ、ヨーゼフは軽くうつむいた。
「すまない」
大聖堂がしんと静まり返る。
「あ、謝ったくらいで許されると……っ」
長と子どもたちがとまどう中、ヨーゼフが顔を上げる。
「しかし、今の話だと魔術師も神官もあまり変わらないように聞こえたな。グスタフがいっていたぞ。神も悪魔も変わらない。ある国の神が、ちがう国では邪神や悪魔と呼ばれているだけだと」
長が逆上して顔を赤くする。
「なんという暴言を……! 元は王だったくせに、我が国の宗教を愚弄するのか! 神と悪魔では性質がまったくちがうわ!」
ずかずかヨーゼフへつめよるとその胸ぐらをつかみ、拳をふり上げた。
ヨーゼフは顔を青くしながらも抵抗せず、目を閉じる。
「まあ、その辺で」
場違いなほどのん気な声が聞こえたかと思うと。
大聖堂の隅にあった聖女の銅像とヨーゼフの位置が入れ替わっていた。
拳を止めきれずに銅像を殴ってしまい、長が悶絶する。
ヨーゼフの肩に軽くふれていた手をはなし、男は愛想よく一礼した。
「ジャクセン国参謀兼、宮廷魔術師グスタフです。現王の命令で視察にきましたので、ちょっと彼と話をしてもいいですか?」
くせのある紫の髪に黒衣。
どこにでもいそうな平凡な顔だが、不思議と年齢がわからない容姿。ほんの一瞬だけ開いた瞳には魔石で出来た紫の義眼がはまっていた。
寺院の外。
二人でさびれた敷地内を歩きながら、複雑そうな顔でヨーゼフが問う。
「なんでおまえはなんの処分も受けず、いまだその地位にいるんだ?」
「有能だからじゃないですか?」
グスタフは平然と答える。
「ああそーかい」
「前王……もう前々王でしたっけ? その時代からそれなりに重宝してもらってましたしね? 王の命令でしかたなく神獣を利用し、殺そうとした罪。その他死神の仲間を逃した罰で、罰金と謹慎一ヶ月でした」
さりげなく高齢であることを明かしたのだが、ヨーゼフは気づかない。
「謹慎を受けていたわりには血色が良いな」
「わかります? 自宅にこもって朝から晩まで魔導書を読みあさり、研究に没頭する日々。給料的には痛くても精神的にはとても楽しく充実した毎日でしたよ?」
にこにこほほえむグスタフに、ヨーゼフはかすかに口元を緩ませる。
「……そうか。俺には理解できない幸せだが、楽しそうでなによりだ。俺の罪のせいでおまえまで巻きぞえにしてしまっては後味悪いからな」
「……」
グスタフはものすごく嫌そうな顔で舌打ちした。
「たまにまともなことをいうから始末が悪い……また、そのうち様子を見にきますよ。王もあなたが変な気をおこさないかと警戒してますしね?」
「なんだと!? 俺はこれ以上ないほど真面目に罪をつぐなっているぞ!」
「はいはい」
グスタフが帰り、ヨーゼフはぐうぐう鳴く腹をさすって寺院へもどる。
すっかり昼食を食べそこねてしまった。
玄関をくぐると、小さな女の子がよってくる。
「犯罪者さん、魔術師さんに怒られたの?」
寺院で育てている、身よりのない子どもの一人だ。やせっぽちで小さくて、荒れた茶色の髪をおさげにしている。親にすてられたときにもっていたペンダントを大事にしているのだが、そこに書かれていた文字が読めない。
先日、寺院の長に「なんて書かれているのか教えて欲しい」と頼んでいたのだが、長も読めないでいた。
だから、「これは古代ティラ語で”あなたに祝福を”という意味だ」と教えてやった。
古代ティラ語は難解でまだ未解読の部分も多く、一部の上流階級にしか知られていない。その上流階級が娘をすてておいてなにが”祝福”だとバカバカしく思ったものだが、少女は嬉しそうに涙ぐんでいた。
「いや、奴はあれでわりと優しいんだよ。うさん臭いから血の色ミドリなどと呼ばれているがね」
ヨーゼフが告げると少女は安心したように笑い、パンをさし出した。
「あげる。おじちゃんのためにとっておいたんだよ!」
ヨーゼフが目を丸くする。
腹の虫がまたぐうううと鳴った。
「ありがとう……でも、それはおまえが食べなさい」
「えっ、ダメだよ。おじちゃんごはん食べてないでしょ?」
そっと彼女のごわごわした髪をなでていう。
「実は、さっきの魔術師がこっそりご飯をくれたんだ。だから大丈夫だよ」
「さっきのお兄ちゃんが?」
おいコラ、なんでグスタフは”お兄ちゃん”あつかいなんだ。
ひそかにこめかみを引きつらせつつヨーゼフはほほえむ。
昼飯どきにきたんだから、本当に気を使ってくれてもいいのになあの男。
そんな図々しいことを考えていたら、自分のポケットがふくらんでいることに気づいた。
小さな紙袋に包まれていたのは上等のチーズ、干し肉、ナッツ類。ヨーゼフが王宮で好んでいた酒のつまみである。
「グスタフ……!」
ヨーゼフは少し泣いた。
そして後日、魔術師がこっそり寺院に多額の寄付をしていたことをしってまた泣いた。
◆
むかし、むかし。
初代御巫(みかなぎ)は傾国の美女も熱い吐息をもらすような外見でした。
おそろしく人間ばなれした呪力をもつ呪い師でもあります。魅了されて媚を売ってきたり、いいなりになる人間は山ほどいました。バケモノあつかいして恐れる人間も同じくらい。
彼に嫉妬する者も。利用しようとする者も。
だれもが御巫を無視できない。
恐れるあまり無視しようとはしても、無関心ではいられないのです。
普通に接してくれる人間はとても貴重でした。
すでに亡き恩師や何人かの戦友たちがそうです。
特にかつて恋仲になった魔女エリス。
同じようにバケモノじみた力を持っていたので、御巫を理解してくれるのは彼女しかいないと思ったものです。
そんなエリスを失い、もう恋をすることはないはずでした。
けれど。
ゲジ国で沙耶(さや)という少女と知り合い、彼女が気になってしかたなくなりました。
沙耶はかわいい容貌です。
まっすぐな黒髪に丸っこい瞳、小柄で細い身体。
でも、御巫の美貌の方が圧倒的に勝っています。呪力なんてカケラもないし、戦闘能力ゼロ。お化けや魔物を怖がります。オオゲジサマにもおびえるし、御巫が力を使うとガクガク震えます。
なのにちょくちょく話しかけてくるし、ときにはお説教してくるのです。
わけがわかりません。
両親と同じ平凡な人間が普通に接してくるなんて、信じられませんでした。
「私が怖くないのですか?」
思わず御巫がたずねると、沙耶は顔をほんのり赤くしました。
「怖いです。……でも、それ以上に好きなのです」
好意にも敵意にもなれています。今さらなにも感じません。
「気味が悪いと思いませんか?」
「神秘的で素敵です」
「機嫌を損ねたら、殺されるとは?」
「御巫さまは理由なく簡単に人を殺したりしません」
「しったような口を……私だって不機嫌なだけで人を殺したりするんですよ?」
やってみせようかと冷たく見すえても、彼女は動じません。
「そうなんですか?」
他の者なら青い顔をして逃げ出すのに、沙耶はおちつきはらって微笑んでいます。
御巫を殺そうとか利用しようとか、そういった邪心があれば簡単に始末できるのですが。まったく他意がない……むしろなにも考えていないだけに、この娘をどうすればいいかわからなくなるのです。
「……」
調子が狂う。
「御巫さまが優しいことはしっていますから、脅してもムダですよ」
閉口した御巫に、彼女はくすくす笑います。
「あなたは忘れているでしょうけど。以前、私が困っているときに助けてくれたんです」
あいにく、なにも覚えていません。
後日、御巫は沙耶を人気のない山奥へ呼び出しました。
彼女が泣きさけんでもいいように。そして、もめ事を避けるために。
「私のことが好きですか?」
少しとまどっている彼女へ問うと、即答でした。
「はい」
「これでも?」
そういって御巫は頭から酸を被りました。
死んでもかまわないくらいの勢いで用意した、とても強力なものです。
あっという間に髪や皮膚が溶け、血が流れ出します。
腐乱死体のように顔がデロデロになっていく御巫を見て、沙耶は悲鳴を上げました。
ああ、やっぱり。
逃げ出すにちがいない。
そんな御巫の予想とは裏腹に、彼女は自分の服を裂いて酸をぬぐおうとしました。
沙耶まで溶けてしまうとあせった御巫は彼女を突き飛ばします。
それでも彼女はあきらめず、手当しようと近づいてきます。
避ける御巫に沙耶は怒鳴りました。
「バカじゃないですか!」
「えっ」
「そんなに私が信じられませんか!」
「はい、信じられません」
「信じなくていいから、もっと自分を大事にしてください……」
酸でゆがんだ視界の中で、彼女が泣いています。
御巫は水の精霊に頼んで酸を流してもらいました。
それでも髪や皮膚、服がまだらに溶けて目をそむけたくなるような有様です。おそるおそる沙耶に近づいて、御巫は頭を下げました。
「ごめんなさい」
腐乱死体みたいな姿になっても、沙耶は好きだといってくれました。
けれど、御巫は治療して元の身体をとりもどします。
彼女のためにキレイでいたい。
そう思うようになったからです。